2010年10月31日日曜日

野沢那智さん死去のニュースを見て。

俳優で声優の野沢那智さんが、30日午後3時36分、肺がんのため亡くなった、とのニュースが流れていました。享年72歳だったと言います。長寿大国日本と言われ、男性、女性問わず平均寿命が延びている現在では、まだ若い死に入るのかもしれません。


白石冬美さんと組んだ深夜番組「パックインミュージック」は、僕の中学時代の愛聴番組でした。そう、ラジオです。当時はラジオが唯一僕と世界を繋ぐ手段だったように思います。もっとも、ハガキを送ったり、電話を入れたりとか参加をするまでではありませんでしたが。

それでも、いつも何かここでは無いどこかを感じさせてくれて、そんな世の中を見たいと思い、ひとり早く大人になることを夢見させてくれました。これは、野沢さんに限ったわけでは無く、テレビや新聞に登場する人々を見ては、そんな風に感じていたものです。

思うに、中学の頃とかは人並みに感受性も強く、いろいろな人や新しいものに感化されやすいものなのですが、その頃はそんな大人の人たちに憧れに似た感情を抱いていたし、そうさせてくれるものを彼らは持っていたのでしょうね。

今はどうなのかなと、テレビなんかを見ながらふっと思うことがあります。もう充分に大人である僕自身も含めて、そんな人たちのことが若い人にはどんな風に映っているのかということです。しょぼくれちゃってとかああなりたくないねとか思っている人もいるのでしょうね。

それは、ちょっとまずいことです。もちろん、頑張っている人たちは沢山いるわけで、それも身近にいることの方が多いのです。おそらく、そんな多くの人はいつか気付いてくれるとか気付いてくれなくても仕方ないねとか思っているのかもしれません。

最近人の死のニュースを見るたびに、そんなことを考え、自分自身はどうなのよと問いかけることが多くなりました。今からでも良い大人になれるかな、なんて思うだけで、ただ漠然と一日一日が過ぎて行ってもいいほど、残りがあるわけではありませんからね。

2010年10月30日土曜日

こんなはずではなかったのに・・・。

早いもので明日で10月も終わりです。ハービー・山口、ヨーガン・シャドバーグ写真展も中盤を迎えるわけです。いつも感じるのですが、ひとつの展示会に要した準備・検討期間は、会期の長さにはあまり関係ありません。たとえ、1週間の会期(これまでそんな短いものはありませんが)であっても2カ月の会期であっても、する内容はほとんど同じです。


ですから、会期が短いと次から次へと準備を進める感じになってしまいがちです。決して手抜きをすることは無いのですが、正直どこかで締め切りがあるからこれぐらいでとか思いそうになります。今までのところ、アマチュアの方に対してもギャラリー主催の展示会への参加にしていますから、はい、箱はこれですよ、後は所定の規約に従ってしてもらえれば良いですよといったことはありません。

例えば、Sha-gakuのように複数の方々が参加し、展示・発表をする場合は、それぞれの展示作品やポートフォリオ制作を始め、額装といったこまごまとしたことまでサポートしながら行っています。これがなかなか大変だと思われますけど、僕自身はすごく楽しんでしているのが本当のところです。

会期が短くても、使用する壁面が少なくても、作品を表現し、それを個人としてテーマ性ある発表まで持っていくことは、非常に大変なことです。ここで、注意しなければいけないのは、「個人として」という点です。よく見られるグループ展等は、先ず大きなテーマのようなものが掲げられます。グループの各人はそれに沿った作品を選択し、周りの人たちの作品を気にしつつ、トータルとしてのバランスを取ることが普通です。

一方、個人として行うことは、その全ての裁量は個人に委ねられると言うことです。したがって、Sha-gakuのように一見グループ展として成立しているような展示会であっても、まるで違う方向性や作風が出てきて当たり前ですから、そもそも統一感なんてものがあるわけがないのです。その辺りは、主催として少し怖い面でもあるのですが(Sha-gakuは基本審査もありませんし)、逆にワクワクしている部分もあります(Mっ気はありません)。

だからこそ、ひとりひとりが現在の自分が表現出来るように、サポートするわけですね。

さて、来年予定のSha-gaku vol.2は、皆さんの参加無しでは開催出来ません。

今からでも遅くはありませんので、いつかは展示してみたいですと思っている人は、参加し、その感覚や実際を体験することをお勧めします。具体的な目標無しで、自然にそうなったなんてことは、先ず無いと言っても良いですからね。

案内はこちらからです。


あぁ、結局宣伝になってしまいました。あぁ・・・・・・・。

2010年10月29日金曜日

昨日はプロ野球ドラフト会議でした。

昨日はプロ野球ドラフト会議があり、若く有望な選手がまた新しい門出を迎えられることになります。育成枠を入れても、12球団で97人が選択されたと言います。数からみればすごく少ないように感じます。昨今の不況の影響で雇用状況は悪化していますが、大企業であればこの数よりも多いとは思います。


でも、これって自分が応募したり、志願しても面接はおろか書類選考さえないので、まさに自分がやってきたことを何年かの間に継続して見せてこないことには、鼻にも掛けられないわけです。球団も人材を求め、多くのスカウト担当を全国に飛ばし、実際に見て判断し、これと決めた選手しか選びません。

プロ野球。特にこの世から禁止令が出たとしても、多くの人は生活出来ないとは言わないものです。ベタな言い方をすれば、その世界に夢や感動があるから、人はそれに自分自身を投影したり、一体感を持てたりし、本能的な喜びや楽しむ気持ちが得られるから存在しているのです。特に幼い子供たちが夢み、未来に目標を持つ、いや未来が信じられると感じさせてくれるものは、お金やモノを単純に与えていただけでは生まれるものではありませんから、やはり必要な存在なんでしょうね。

97人の選手たちは、早ければ来期から活躍するかもしれないし、数年後花開く選手もいるかもしれません。そうして、それを見て、また多くの子供らに夢や感動を与えていってくれればそれで良いのです。また、残念ながら色々な事情で成功せず、球団を去る選手もいると思いますが、それでもドラフトに掛かること自体、奇蹟みたいなものですから、周りの人たちは見守ってあげて欲しいと思います。

また、大抵の人は、こんなことはプロ野球のような特殊な人たちにしか出来ないと考えています。確かに影響力や大きさに違いはありますが、僕を含めごく普通の人々にでも出来ることはあります。子は親の背中を見て育つと言われていますが、必要以上に世の中をネガティブに捉え、言動や行動に現れてくるものを、彼等は良く見ています。今は、反面教師なんてものはいらないと思います。

次の世代がもっと、もっと未来に夢が持て、何か自分でも出来るんだと信じられるようなものを、ひとりひとりが何か1つでも残そうとしたなら、世の中はさらに質的に豊かになっていくような気がします。

人生は短いものですし、何を残せるか、これも今の僕の課題のひとつです。

2010年10月28日木曜日

星野仙一氏が楽天新監督になること

プロ野球楽天球団の新監督が星野仙一氏(63)に決まりました。仙台ではそのタイミングに合わせて、号外も発行されたようです。昨夜の何回目かの就任記者会見で、「東北を熱くする」と話している姿は、やはり全国区の知名度とこれまでの実績も兼ね備えていることを横に置いても、地元を意識する以上の熱さを感じました。


人はその性格が表に現れるタイプとそうでないタイプがありますが、星野氏はまぎれも無く前者です。そういった点では、実際のところは分かりませんが、野村監督とは正反対のような印象を受けます。さて、今シーズン最下位に終わった楽天が来期、星野監督の下でどれほどの成長をし、多くのファンにその姿を見せてくれるかです。

プロであり、しかも勝負の世界は見た目上下がはっきりとしますから、単純に強い姿を見せればお客さんはそれなりについてくるでしょう。そうして、一過性であれ何であれ、熱いモノを持ってくれるかもしれません。ここで言うお客さんとは普通にテレビ画面上で野球観戦をしたり、ほんとに年1回とか機会がなければ実際に球場まで足を運ばない人を言います。何度でも繰り返し球場に足を運び、生のプレーや選手に触れることを楽しみとし、自分自身が応援という形で参加しているようなファンではありません。もちろんファンの方々は、今でもすでに熱いのだと思います。

東北人は口が重いと良く言われるように、言葉数少なく、自分自身を表現することが苦手のように思われています。実際のところ当たっている部分は多く、我が我がと主張することをあまり良しとしないようです。人との付き合いの中で、他人に尊敬を抱き、自分にも謙虚であることは素晴らしいことで、それがあるからこそ苦労することもしていけるとも言え、そんな時にはほとんど損得なんか考えない場合の方が多いように思います。

そして、そんな時、人はとても熱い状態だと言えます。人がそうしたいとかああなりたいと願うことと、そうするとかああなると決め、行動として起こすことには、とてつもなく大きな壁があります。壁を乗り越える言葉として当てはめると、情熱ですかね。

僕は星野氏が言った「東北を熱くする」という言葉には、地元へのリップサービスだけでは無い、もっと大きなものを感じます。

来季はグラウンドに行ってみようかなと思います。

地元にあるからこそすぐに出来ること、そしてそれが熱くなれる一歩なのですから。

2010年10月27日水曜日

少し遅めに目覚めた朝に

今日は遅くなってしまいました。いつもと同じつもりで目覚めたのですが、起きるとすぐ見える壁に付けている時計は、普段とは違う形になっていました。ウン?と思いながら、そばにある腕時計を見てみると、やはり同じ形になっています。


9:42でした。

久しぶりの寝坊ですね。今朝は5:00前に一旦目を醒ましたのですが、これはちょっとまだ早いでしょうと、いわゆる2度寝をしたことは覚えていました。2度寝することは、結構頻繁で特に変わったことではなく、いずれ2時間も経たない内にまた目を覚ますのが普通の状態です。

そんな調子で普段通り浅い眠りの状態から、目覚めたつもりだったわけです。会社勤めや仕事で朝出かける人は良く分かると思いますが、朝の10分とか20分ってすごく貴重というか、時間の進み方が違うように感じます。その為にちょっとした手違いにより、1日のリズムが崩れてしまう人もいるようです。

僕の場合は、それほど神経質でも繊細でもないし、まぁ、午後一にギャラリーを開ければ良いしと思えるので、あたふたはしなくて済みます。以前からそうだったような気もしますが・・・。そんなわけで、午前中は休みの日以上にのんびりとしてしまいました。きっと今日はそんな日なんだと自分に言い聞かせるように。

普段とは違うルールやルートで行動していると、違和感や不安を感じるものです。だから、ルーチンワークは意外にその存在自体が大事になるのだと思います。自分の中での予定調和を自ら意識して崩すあるいは他人から崩されることに大抵は拒否感を覚えます。後者の場合は、尚更ですね。

また、全てが決まり切ったシナリオの中で、その登場人物のひとりになって動いていると感じる時、そこで発せられる言葉や行動は本当の自分なのか、あるいはそれを演じている意識はあるのでしょうか。これは、日常生活で社会とのつながりがあり、組織のひとりとして存在している場合は、誰しもが感じる疑問のように思います。一方で、変化し続けないと進化しないという事実もあります。それは外見だけではなく、中身の方が更に重要になります。

自分が何者であるかなんて青臭い哲学を語るつもりはさらさらないし、決して誰にも分からない命題であるわけですが、でも今ここに存在している自分を見つける為にも、敢えて崩すことも必要なのではないかとは思います。それによって、思いもよらぬ発見があるかもしれないわけですから。

人は複雑な思考と意識を持っていながら、単純かつ愚かな失敗を何度も繰り返し起こします。でもその失敗があればこそ生まれるモノもあるわけです。

これ、単純に寝坊の言い訳みたいだ。

2010年10月26日火曜日

環境

札幌の朝の模様がテレビに映し出されていました。去年より6日早い初雪の模様です。初雪と言っても、結構な降り方をしていました。いよいよ冬の到来となりそうです。寒いのと暑いのとどちらが良いかと聞かれることがありますが、僕の場合はどちらかと言えば寒い方が気にならないかもしれません。元々がこちらの生まれだからそうだろうと思われがちですが、実際は東京の生活の方が長いので、あまり関係はないと思います。


住環境といった点では、逆にこちらの方が暑く感じたりしますし、一概に北にあるから涼しいよねとは言えなくなってきました。それでも今この時期に雪が降る地域が日本にあるのですから、改めてその幅や広さみたいなものを感じます。

よく、環境が人を作ると言われますけど、季節感や体感として受ける温度差は大きな要因のひとつだと思います。僕もこの数日少し体調が落ちているので分かりますが、必要最低限のことしかしていない日々を過ごしているようで、気分的にも落ちています。昨日は、意図的にそんな風にしていたのですが、している本人がそう感じてしまうのですから困ったものです。

例えば、寒さをしのぎ、内に籠り、出来るだけ必要最低限の行動を行い、自分を抑えているような生活を続けていると、最初の内はとてもフラストレーションが溜まってきます。でも、その環境が自分の力では変えられないことが分かると、人は2つに分かれるような気がします。

ひとつはそんな中にも楽しみを見いだしながらより行動的に生きようとし、もうひとつはこの環境を仕方ないものとして、まるで厄災が通り過ぎるのをじっとして待っているような生き方です。異論を唱える人がたくさんいることを理解していますし、もっと違った生き方をする人もいるのでしょうが、印象的にはそんな感じです。

前者は、その後自分のしようとしていることがこの地では出来ないもしくは変えられないと感じた時点で、外に向かうようになります。後者は誰しもに与えられた環境であるから、耐えしのぶことが当たり前で、それが地域としての統一感なりモチベーションとなっていくわけです。

でもね、現在を考えると、実は僕は両方ともに否定的なのです。世の中はグローバルであり、情報の発信はほぼ自由に出来ます。個と個の繋がりは非常に希薄にはなってきていますけど、本質的な人の心は太古のころからあまり変わっていないように思います。だからこそ、与えられた環境が人を作ってはいけないように感じるわけです。

逆ですね。人が環境を作る、べきなのですよ。
しかもそんな世界はすぐそばに、既に存在しているのです。

2010年10月25日月曜日

完全休養日

今日は休廊日です。のんびり、身体を休めようと思います。特に無理をしているわけでもないのですが、このところ体調が本調子でないように感じます。僕にとって体調のバロメーターになるのは腰の具合で、それはとても顕著に表れます。


経験的に言って、なんとなく違和感があり、ヤバイなと感じる時は、ひたすら休養に時間を割くようにしています。日曜日のお父さんのように(今はそんなことは無いのかもしれませんが)ゴロゴロと寝て、過ごすわけです。安静にしているだけですから、休暇を楽しんでいる状況ではありません。全く楽しくもない休日になるだけです。

しかも、身体を動かしていない時でも、頭の中は休養していない状態ですから、あれこれと余計なことが浮かんでは消え、終いには思いついたことを実行に移そうとし出すので、注意が必要です。じっとしていると、何かをしようと思うようになりますからね。
人は、意識的にも無意識にも常に何かを考えています。それが、生きていることのひとつでもあるわけですから、眠りは一瞬の死であると言った著名な作家さんは正しいのだと思います。

そんなわけで、今日は完全休養日にしようと思います。
あえて何もしない怠惰な一日も必要なものです。

それでは、また明日。

2010年10月24日日曜日

マツタケ大豊作

今年はマツタケが大豊作らしいです。例年の30~40倍の取れ高で、中国産や韓国産よりも安値で取引されている様子がテレビに映し出されていました。僕自身、とりたててマツタケが食べたいと思ったことが無く、普段は口にすることもありません。これまでは、高価でしたし、口にすることが出来なかったと言った方が正解かもしれませんが。


なんで今年はこんなに採れるのだろうかと地元の業者の方にインタビューをしていました。曰く、9月から急に冷え込み、それに加えて適度な雨があったので、マツタケが生育しやすい(喜ぶと表現していましたが)気候、環境になったからと話していました。ご存じのように、マツタケは人工生育が出来ない種類のキノコです。その為、国産品は特に高価で貴重なものとして、一般庶民には手の出せないものでした。

それが今年は、安いうえに質も良いようですので、話のタネに食べてみるのも一考ですね。この話題を見ていて、環境って当然ながら大事なんですねと思いました。マツタケ業者の言う適度な雨がどんなものなのかは分かりませんが、その適度の幅もきっと微妙で、タイミングとかがドンピシャだったのでしょうね。

自然の植物や生き物は、自分の感情や意識で行動していないですから、理にかなった動きしかしないことが常です。生存が第一としてあるわけですし、その時々で自分から環境を変えて過ごしやすくすることはなかなか出来ません。だからこそ、まるでそんな環境にある事を喜んでいるように、生育していったのだと思います。

一方で人は、と考えると、そうではありません。そこには人が持つ英知があったり、経験によるものが左右したりするので、むやみやたらにその環境に迎合するばかりではないと言えます。このことは、時として自然の摂理に背いていることなのかもしれません。

もし、マツタケの大豊作が異常気象の賜物なんて言われるのなら、その元凶として挙げられている過去に積み上げてきた人の行動がそうさせていることを考えながら食べないといけませんね。旬の期間はとても短いものですし。

2010年10月23日土曜日

火災報知機点検の日

今日は年一回している火災報知機等の点検があります。ギャラリー、自室と両方行うようです。2軒先が消防署ですから、何かあってもすぐに駆けつけてくれるとは思っていますが、何もないことに越したことはありませんし、逆にあっては困るものです。


ギャラリーにある火災報知機のサイレン部は結構大きく、非常に目立つようにあったので、内装工事の時に、取り外せませんよねと業者に聞いてみました。移動するにも築30年以上も経ち、配線関係も不明な部分があって、費用がかなりかかってしまうとの見解でした。仕方ないので、外側に白の塗装をしてしまいました。元々はクリーム色だったらしいのですが、長年に渡る環境のせいもあり、黄ばんでいましたので、塗装をすることで少しは違和感が薄れました。

僕自身ギャラリーのイメージはホワイト・キューブよろしく、一面白でした。その中で動きがあればと考えていました。内装を大幅に行い、初めから作り上げれば出来るのでしょうが、費用的な面があったので、現状を活かしながら、まるっきり違うものにしていくことに頭を悩ましました。その為、内装プランも数種類出し、何度も見積もりをしてもらいました。ホント、業者の方は、面倒くさい客だと思ったことでしょうね。

ある程度の妥協はあるにしても、ほぼイメージ通りのものになったと思っています。壁のクロスはそうそう張り替えることは出来ませんが、まだまだ充分にきれいです。多くの方に使ってもらいたいと考えてはいるのですが、若干威圧感もあるようで、その辺は難しいところだなと実感しています。

もうじき、点検に来るはずです。午前中に終わらせてもらわないとこちらも面倒くさいので、業者を見つけて先にしてもらおうと思います。そう言えば、自分の体の点検はしてないなと・・・。年齢も年齢ですから、少しは考えないと。

2010年10月22日金曜日

今日は週一の掃除の日です。

今日は金曜日です。週一で、隣との共用部であるトイレを、ビルの管理会社の手配で掃除に来ます。お隣の「可らし」さんは、いつも午後から仕込みに入りますので、午前中に行われる掃除には僕が付き合うわけです。付き合うと言っても、ただ入口を開け、中に入ってもらい、掃除が終了したら出て行ってもらうだけですから、特に話し相手をするわけでも無く、その時間にいるだけの話です。


僕の場合、大抵、9:00前にはギャラリーに入っています。深夜遅くまでの営業ということでもなく、以前より大幅に拘束時間は短いし、朝からの時間の方がなんとなく落ち着いて色々と出来るのでそうしています。なので、朝早い時間に来られても、特に困ることはありません。

2ケ月程前に管理会社が変わり、来る人も変わってしまいました。1年間に渡って毎週掃除に来てくれていた人は、僕とほぼ同い年くらいの女性の方で、世間話なんかもしていましたが、今の方は70を越えていると思われる女性です。最初来られた時は、その細い身なりに大丈夫かなと思っていたのですが(トイレを掃除するだけでは無く、午前中にビル全フロアの通路も掃除するので)、続いているようです。

長寿化、高齢化に伴い、一度リタイアしてもまた仕事をする人や仕事をしていかなければ生活がおぼつかない人も増えています。国の社会保障制度をどうこう話すつもりはないのですが、時々首を傾げたくなります。仕事を一生行い、健康に過ごすことを生きがいとしている人もいるのでしょう。中にはそうではない人もいらっしゃるわけで、その為に今まで一所懸命やってきて、残りの人生をゆっくりと過ごしたいと思っているのではと考えてしまいます。

人は泣きながら生まれ、生きることは困難極まりない事のように昔から言われています。わずか100年しかないその期間で、それではちょっと割が合わないよなと感じながらも、不条理と矛盾の現実を生きているわけです。そんなことを少しでも感じながら生きてくると、もっと楽に豊かで(心持ちとして)いられたら、と思ってしまいます。

あっ、今掃除が終わったようです。

ありがとうございます。言葉として伝えないと。

確かにそれは仕事であったとしても、僕よりも長く生きてこられた人であって、何より今もなお現実と向き合いながら生きている方なのですから。

2010年10月21日木曜日

朝の缶コーヒー

ギャラリーの前にある3台の自動販売機。その3分の1がいつのまにか温かい飲み物に変わっていました。毎朝、缶コーヒーを買うぐらいで、その他はほとんど利用しないのですが、こんなところにも季節が冬へ向かっていることが感じられます。いつも買うものが決まっていると、確認もしないでボタンを押してしまいそうになります。それでも、今日はボタンの赤に気が付いて、押すのを一瞬ためらいました。


自分は今本当にこれを飲みたいのとの考えが浮かんだわけです。大げさでも何でもなく、普段はというか昨日まで冷たいものを選んでいたわけですから、それほど気温も変わらない今日は温かいものでよいのかと思いました。それでも、こんなことで、自動販売機の前に何分も考えている程暇ではありませんから、そのままボタンを押してしまったのですけど。

さて、温かいコーヒーを飲みながら今これを書いています。昨日とは違って温かいコーヒーもまぁうまいものです。缶コーヒーだろうと言われるとは思いますが、これが無いとなんかギャラリーでの朝が始まらない感じではあります。実は、起きてすぐに自室で、ドリップのコーヒーを飲んでいます。なので、わざわざ缶コーヒーを買ってまで飲む必要もないだろうとの自覚もあります。

おそらくは、僕にとってはこれが朝の儀式のようなものなのです。甘ったるいまがい物のような缶コーヒーを飲み、その身体には良くなさそうな甘さを舌から喉へと通すその時に、今日も一日が始まると思えるのかもしれません。その意味はと問われても、多分答えられないと思います。

どなたにもこういうことってあるはずです。あるいは、無意識のうちに行っている場合もあり、他人から指摘されて初めて気付くなんてことも。良いことか悪いことかは別にして、そうすることでスイッチが入ったり、これが無いと始まらないとか安心出来たりすること、ひとつの安定剤のようなモノですね。

もうじき飲み終えようとしています。今日も一日が始まりました。

2010年10月20日水曜日

僕が普段していること

ギャラリーの仕事ってあまり一般の方には分からないと思います。何か良く分からない、実用的ではない作品を並べているだけで、普段は何をしているかなんて想像も付かないし、違う世界の話のように感じるのではないかと思っています。特に、作品販売が主で、箱だけを貸しているわけではないので、余計そう感じるのでしょうね。


仙台を始め、地域では滅多にお目にかかれないものですから、幾分敷居が高いとかレベルが上に感じられている方が多くいるようです。実際何度もそんな話を聞いています。(たかが1年余りの小さなギャラリーなのに・・・)

僕はそういった部分をとても哀しい現実と感じています。これは、仙台に限ったことではないと思っていて、延々と続いてきた首都圏集中の文化行政がひとつの要因であると思います。アート性の高いもの、一目でレベルが高いと感じられるもの、簡単に言えば趣味の範疇を遥かに越え、その作家性やアート性が前面に出ているようなものは、限られた人たちが理解するものであったり、首都圏でしか観ることが出来ないものとの考えがどこかで刷り込まれているような気がしてなりません。

ギャラリー自体目新しいモノかと言えば、形態自体は昔からある画廊と一緒ですから、特異ではありません。まぁ、写真に特化している点では珍しいのかもしれませんが。古くからある画廊にしても、やはりそんな存在だったし、今でさえ印象はあまり変わりませんから、ある意味仕方ないことなのかなとも思います。

さて、やっていることはと言えば、簡単に言えば、頭の中で想像したり創造したものを、具体的な形として皆さんの前に提示する作業ですね。僕は写真家ではありませんから、写真家やそこから生まれる作品に対して、見せるとか関心を持ってもらうように考えているだけなのです。企画を立てる、展示に関わるコンセプトやテーマを検討し、効果的に見せる、言葉としてそれらを説明する、広告・宣伝としてのさまざまな媒体のデザインを考える、しなければならないことは多岐に渡っています。

もっとも、それを考え、検討している時間の方が絶対的に長いので、他の人が見れば余計何をしているのかは理解出来ないかもしれません。自分で良しと思って、発表や提示したことがそのまま受け入れられない場合の方が多いので、ますますそう思われるのだと考えています。

今は哀しいと感じている現実を、楽しい現実へと変える為に日々過ごしていると言って良いと思っています。それには時間も必要なのですが、そうも言っていられませんので、先ずは皆さんに見に来てもらえるには(受け入れられる?しかも個人的な範疇で)といつも考え続けています。

一度見に来て下されば、その意味が分かると思います。

2010年10月19日火曜日

「豊かさ」

めっきり寒くなりました。これが平年並みとのことですが、ものすごく暑かった記憶がいまだに拭い去れないでいるので、余計寒く感じられます。今日は、ウールのセーターを出してきてしまいました。


一般には衣替えとかの習慣が昔からあるので、季節外れに寒かったり、暑かったりしても以前はその季節的な服装をしていることが多かったように思います。それでも、居住環境の変化に伴い、その姿も何でも有りになってきました。真冬に部屋で半袖姿でいても一向に構わないですからね。

日本は四季折々という言葉のように、自然はそれぞれの季節で違った姿を僕たちに見せてくれたり、肌で感じさせてくれます。その点では、すごく豊かなのだと思います。ここで言う「豊かさ」って、物質的であったり、お金であったりするものではありません。移り変わる日常の情景に触れ、そのいとおしさやはかなさ、喜びなんかをごく自然の内に感じられる「豊かさ」ですね。

でも、今こうして書いている僕でも、そんなことを常に認識しながら生きているわけではありません。日常はもっと厳しく、切ないものですから、フッとした瞬間に感じるものです。あるいは、わざわざそういった環境に浸れることを期待して、その場に出向き、半ば強制的に自ら仕向けている時ぐらいなのかもしれません。

ちょっと、哀しいですね。

「豊かさ」って常に与えられていると、ますますもっととの思いが出てきますし、きっと享受しているだけでは際限ないものなんだろうなとも思います。自然の「豊かさ」は本来それ自身が与えようと思っているわけではなく、そういう姿に対して僕たちが与えられているんだと感じるからそう思えるのですから。

人も然りですね。

2010年10月18日月曜日

少し息抜きが必要か?

頭の中がぼんやりとしているようです。


いろいろとやるべきことはあるので、少し整理しないといけません。まずは掃除をしなくっちゃと思っています。もちろん自室の方です。ペットがいる家庭は良く分かると思いますが、動物は予想以上に毛が抜けますから、しばらく放っておくと大変です。僕は幸いアレルギーがないので、多少の毛は問題ないのですが、それでも気になります。

それから、薬が切れてきたので手配しなくてはと。これもpolkaのものです。まぁ、電話して頼んで、通りひとつ離れた病院に取りに行くだけですから、これも大したことではありません。一緒にしてはいけませんけど、お子さんがいる家庭はもっと大変ですからね。ホント、世のお母さん方はたくましく、立派です。

そして、次の企画の準備やらその為にいま考えなくてはいけないこと、検討すべき事項を洗い出さないといけません。これが一番大変で、一日中僕の頭のどこかにあります。眠ている時以外はずっと残っています。仕事だからと言われてしまえばそれまでの話ですが、時々は自分でもその状況を楽しめなくなります。

おそらく、今日はそんなぐちゃとした感じで終わるのかなと予想しています。掃除にしてもpolkaの件にしても、それ自体は大変ではないのですが、いろいろな要素が組み合わされて動いてくると、面倒に思えてしまいます。また、仕事については自分ひとりで解決したり、済ますことが出来ない類もありますから、ただ時間だけが過ぎて行くような感覚に襲われる時もあります。

少し、息抜きしなくてはと思います。まだ、何をすれば良いのかは分かりませんが、取りあえず今日しなくちゃいけないことが終わったら、そうしようと考えています。

それまでは、頑張れ、自分!

2010年10月17日日曜日

口ほどに物を言う

「目は口ほどに物を言う」


誰もが一度は耳にすることわざにひとつです。目つきは、口で話すのと同じ程度に気持ちを相手に伝えるという意味で使われる場合が多く、似たような言葉には、目は心の鏡とか目は心の窓といったものがあります。

これは人の表情の中で、もっともその人の心情を表わすものが目ですよと言っているもので、実際その通りだと思います。情報の多くは見ることで成立していて、そこから得られた情報を脳が判断して、行動に起こすわけですから、目自体が脳の一部だと言っても良いように感じますし、その反応が目つきや目の動きとして表れるのは至極当然のことです。

毎朝誰しも自分の顔を鏡で見ると思いますが、無意識の中に、自分の今ある状況をどう感じているかを目が物語っているように思える場合があります。自分自身ですらそうですから、他人の目に対しては、一層敏感になってしまいます。それほどに、目の役割は重要なものなのです。

さて、アメリカの写真家ウィリアム・クラクストンは、自身のドキュメンタリー映画「Jazz seen」の中で、まばたきをするだけで写真が撮れたらどれほどいいかと話しています。ホント僕もそう思います。美しいとか驚いたとかその他色々な感情の揺れを覚えながら毎日を過ごしているのですが、その一部一部を記憶としてだけではなく、記録として残せたならとの思いからカメラは生まれたように思います。

もちろんカメラのレンズは表情を変えたりはしません。そこから、感情を感じることはありません。人の目により近く、目の前にあるものを忠実に写し撮る道具としてあります。それでもそこから生み出される写真には、時として驚愕であったり、得も言えぬ感動が備わっている場合があります。

これも、口ほどに物を言うってことじゃないのと思ったりします。

2010年10月16日土曜日

普通の生活

チリの落盤事故から救出された人々に、講演や執筆、テレビ出演等のオファーがものすごい量で来ているようです。すでに映画化も決まったとの報道もありました。言い方は悪いですが、これほど世界的に注目を浴び、いやが上にも目立つ存在になってしまった彼らをさまざまな世界の人間が利用しないわけがありません。


でも、当人は普通の暮らしに戻りたいだけなんだと思います。中にはこれを機にと考えている人もいるのかもしれませんが、実際のところそんなことまで思っている人はいないでしょうね。そっと普段の生活に戻ることを誰よりも願っているのです。

あまりにも強烈で極限的な状況を体験した人間はごく限られたもので、そこで得られたもの、失ったものはわれわれには計り知れないものです。そんな彼らの体験を広く多くの人に伝えることも、マスコミやメディアとして当然のことなのかもしれませんが、ここは少しおとなしく見守ることも大事なことなのではと、やや過熱ぎみに語られる映像や報道を見るたびに僕は感じてしまいます。

一方で普通の生活ってなんだろうかとも考えてしまいます。毎朝一定の時刻に仕事に向かい、ある程度意に介さないことに抵抗感を受けながらも日々の業務をこなし、少し疲れた体で帰宅し、ある人は家庭での団欒を持ち、ある人はひとりでありながらも自分自身の時間を持ち、そして眠りにつく。翌朝同じように一日が始まり、やがて週末や休みに身体を休め、余暇を楽しむ、それがいわゆる普通の生活なんだと思います。

こういったルーチンワーク的な生活は、そのほとんどが予定調和の中にあり、それはそれで居心地の良いものです。それでも、そうあることを願っているもしくは意識してそうしている人々にも、辛いことや苦しいことは必ず起きるわけで、その時その時で対応しながら生きているわけです。おそらく、救出された人の中にはそんな考えの人もいたと思います。

彼らが負った困難は、僕らのそれよりも遥かに大きいもので、想像しがたいものであることは充分に理解出来ます。困難を現実のものとして受け入れ、それらを克服しようとするには、意識的に無意識的に、困難の後には希望のようなものが見出せるのかどうかだと思います。それがごくごく普通の生活であっても、いや普通の生活だからこそと言ってもよいですね。

そして、彼らはそれを体現してくれ、僕らに目の前のものとして見せてくれたのですから、これ以上何を求める必要があるのかと、僕は思うのです。

2010年10月15日金曜日

自分に対するアジテーション?

10月も半ばにかかり、季節的にはとても過ごしやすい毎日です。そろそろ、色々と考えてきたことや次回の企画展に必要なものをまとめなくてはと思いながら、判断待ちが多い状況です。判断待ちと言っても、上司に意見を仰ぐわけでも無く、自分がどうするかを決めるだけですので、結局は優柔不断の虫が頭の中を動き回っているだけなのです。


ああしたらこうなる、こうしたら次はこうだよなとか将棋で先の手を考えるように、いろいろな想定が浮かんでは消え、まだ駒に手を触れられない感じです。準備は確かにしているし、そこから生まれるモノってこれだと思えていても、全く不安が無いかと言えばそうではなく、試行錯誤いや思考錯誤していると言って良いかもしれません。

まぁ、最後はえいやっと決めてしまうのは分かっているのですが、プロセスはやはり大事ですからね。最近はビジネスでも何でも結果が即求められます。結果の伴わないものは全てダメという風潮は、しばらく続いているように思います。確かに継続は、ひとつひとつの結果があってこそ成立するものだし、世の中のスピードは年々早くなってきているわけで、その論理は正しいのかもしれません。

でも、こと文化、芸術に関わるものについては、その論理がまるっきり当てはまるかと言えばそうではありません。数十年、数百年後にその価値が認められ、称賛されることはいくつもあって、その時点での評価はあまり意味を持たない場合もあります。そうは言っても、人が生きている期間なんてほんの数十年だし、分かっていることは今がここにあって、もっともその事が大事なことで、最後は土に還ることぐらいです。

誰にも予想出来ないほんの先の未来を懸念し、考えすぎるくらいに考えても、結果がそれに伴ってくれるわけでもありません。いらんことはあまり考えないこと。

物事をネガティブに捉えているだけでは、今、その瞬間も陳腐になってきます。

これって、自分に対するアジテーション?

2010年10月14日木曜日

チリ落盤事故救出の映像を見ていて。

チリの落盤事故からの救出の様子を見ていると、当たり前ですがひとりひとりに様々なドラマがあることを感じます。人は生まれてから現在までに様々な人と出会い、そして多くの人の支えによって生きています。よく「生かされている」という言葉を聞くことがありますが、まさにそうなのかもしれません。


約700mの地下の狭い空間に、70日あまり33人がいること自体、想像を遥かに越えた出来事です。今言われている世の中の閉塞感どころではなく、現実のものとして彼らはそれを感じ、耐えてきたわけです。救出にかかる期間は当初4カ月とも言われていました。そして救出には丸2日がかりの予定でしたが、おそらくはこれをアップするころには、全員が外に出ているかもしれません。

前代未聞の出来事であったことが、その救出に関してもより慎重になり、余裕ではないにせよそのような期間設定や予定を発表していたと思いますが、まぁなにより早まったことは良いことで、そして無事終了することを願うばかりです。

さて、画面から映し出される感動的な再会のシーンを見ていて、フッと、救出された33人はまた作業員として坑道に潜るのかなとか、後の生活保障も含めて事故発生の責任はどうなるのかなとか余計なことが浮かんできます。今後、様々な問題が個人的にも公的にも検討され、議論されていくのでしょうが、二度とあって欲しくないし、自分の身にも周りの人にもそのようなことが起こって欲しくないとの思いは共通していると思います。

人は大きな出来事に遭遇したり、体験をすると、自分の人生についての考え方が大きく変わると言われています。僕自身がそうであったかと言えば、あったと言えなくも無いわけで、ただこれが現状を形作っているかと言えばそうでもありません。芸術や文化を個人的にビジネスとして行っていくには、ある種の使命感や覚悟が必要になりますが、僕としてはあまり大袈裟に捉えたくはありません。それでも、続けなくちゃとは思っています。

まだ坑道の中にいるような気分ではありますが・・・。

2010年10月13日水曜日

凡庸な日常・・・写真として残すこと

凡庸な日常を美しい「断片」に変えるもの。


どこかで聞いたことがあるフレーズですが、写真はそういうものです。ここで言う「断片」とは、今その瞬間であり閉じ込められた永遠でもあり、時間や場所を記録として、または記憶として残されたものです。写し撮られたそれらは、まぎれもなく現実の目の前の世界であって、過去でも無く未来でもありません。(作為的に作られていなければですが)

このことは、世の中は様々な美しいモノがモザイクのように集まって、構成され、現在でのみ見ることが出来ることを意味しています。それは、人の笑顔であったり、生への喜びであったり、何気なく佇んでいる花であったり、あるいは人工的に作られた構造物でさえ内包しているものなのだと思います。

そして、それらを美しいと感じる心があるからこそ、その美しさは見出されるとも言えます。写真はカメラを介在し、あるがままの姿を写しだすだけではなく、自分自身を映す鏡でもあります。写実的である以上に、自己投影された非常に主観的なものなのです。

また、美しさの基準は、人それぞれであり、その範囲は無限大に広いものだと思っています。そう言ってしまうと、基準なんてことはまるで意味を持たないものになってしまいます。なので、実際、同じものを見て、その感じ方や伝わり方が全く違っていても良いわけです。

現在、ほとんどの人はカメラを保有していたり、携帯の機能であれ、何かを写し撮れる環境にあります。仮に撮影する行為やそこから表れるイメージに興味があれば、先ずは撮り続けて欲しいと思います。

なぜなら、日常は凡庸であれ、美しいものであり、その中には、自分自身も含まれているからです。

2010年10月12日火曜日

祝日の昨日、とても暖かな一日でした。

昨日は体育の日で祝日であったのと休廊日が重なったので、僕も何か人並みに休日を過ごしたような気分になりました。それでも、昼までは数人にメールをしたり、ひととおりの仕事らしきことをしていました。その後、一旦自室に戻って、お昼ご飯を済ませてから、ソファーに横になっていると、いつの間にか寝てしまっていました。


約1時間後に目を覚ますと、隣でpolkaも午後の陽ざしを受けながら丸まっています。2日振りに差し込む日差しが、祝日のゆったりとした時間を演出しているようで、まだぼんやりとしている僕をとてもおだやかな気持ちにさせてくれました。polkaも気持ちよさそうに一度欠伸をしてから、普段はいるはずの無い僕がそばにいても、甘えるでもなく、いつもと変わらぬ表情で僕をじっと見ていました。

さてと、今夜は木戸さんと会うんだよなと思いながら、ソファーから身を起こし、身支度を済ませて、少し早めに部屋を出ました。祝日の街中は人に溢れ、とても暖かいこともあって、この季節にしては珍しく半袖でいる人が多く、閉塞感漂う世の中がどこにあるのだろうと思うほど、秋の陽光を楽しんでいるように見えます。

そうこうしている内に、すっかり陽は落ちて、待ち合わせの時間になりました。以前から食事をしながらゆっくりと話しましょうと約束をしていながら、なかなかその機会が取れなかったのですが、ようやくそれを果たすことが出来ます。それほど大げさなことではありませんが、ずっと気になっていました。案の定、久々の再会は、時間を忘れるほどの楽しいもので、すっかり長居をしてしまい、木戸さんにもお店にも迷惑をかけたのではないかと思ってしまいました。(これに懲りず、またゆっくりと会いましょうね、お願いします)

その後、ギャラリーへ戻ると、一通のメールが来ていました。以前の会社で部下だった男性からのメールです。彼も会社を辞め、就職活動をしばらくしていて、その間に一度東京で会ったり、メールでやり取りをしていたのですが、ようやく次の職場が決まったとの報告を受けたのが9月の頭です。本社がドイツにある外資系の会社で、今、研修でドイツにいるとのメールです。

とても楽しそうな様子が目に浮かびます。彼も一歩踏み出しました。

さて、僕の方は・・・。

そんなことを考えながら、一日が終わろうとしていました。

2010年10月11日月曜日

しあわせの瞬間

幸せはその状況や状態では無く、その瞬間、瞬間に感じるものである。


誰の言葉だったかは忘れてしまいましたが、昨夜遅くある映画を見ていて、ふっと頭に思い浮かびました。絶望的な状況においても、人は感動し、その瞬間、幸せであることを感じるものです。むしろ、そんな幸せな状況がごく当たり前のようになった場合、案外、人はそう思わないのかもしれません。

ある人は自分の身を飾り、美しくあることで、またある人は美味しいモノを食べているその時に、そしてまたある人は自分自身では創造出来ないものに出会ったその時に喜びや驚きを感じます。殊更に幸せであると感じるよりは、むしろそこから得られる所有感や充足感、その他感動の類がそう思わせるだけなのかもしません。

つまりは、そういった物的なものや状況は、きっかけに過ぎないと言えます。しかもそれらは、見えないもしくは感じていないだけで、身の回りに転がっているもののように思えます。

この世は自分の思うようにはならないし、さまざまな困難や苦労を重ねながら生きて行くことが人としての宿命のように思われがちです。実際、現実的に生活をしていくということは、そうゆうものなのかもしれません。それでも、物事を悲観的に捉え、全てを訳知りのような顔をして、世の中こんなもんだよと口癖のように話している人でさえ、そんな幸せを感じる瞬間があるはずです。

僕は以前からそれでいいんじゃないのと考えていました。そして、その瞬間、瞬間を自分自身だけでなく、他の人たちと共有出来ることが出来たなら、すごいことだろうなとも思います。それは、家族の中であれ、グループであれ、決して形に捉われるものではありません。

もし、このギャラリーの中でそんな瞬間を見つけられたら、どんなに幸せかと感じます。

2010年10月10日日曜日

きっかけ

先週からようやく「1Q84」Book3を読み始めました。刊行されてすぐに購入はしていたのですが、何故か読み始める気にならずに、ずっと放っておいたものです。ノーベル文学賞の候補として何度かメディアに登場するようになり、急に思い出したわけではないのですが、そろそろ読んでみようかという気分になりました。


単純に僕のきまぐれに過ぎないと思うのですが、何かのきっかけとか気分って重要だと感じることがあります。もちろん仕事や人との絡みがあることは、気分だけでしたりしなかったりは出来ませんので、あくまで個人的な部類に関して言えるものです。

昨日は、Sha-gakuやStoryにも参加して下さった小出さんが見えられて、長い時間話をしていたのですが(もっぱら僕のグチを聴いて下さって有難うございました)、その中で「吐き出さなきゃダメだよね」との言葉が印象に残りました。彼は今、もっぱらi-phoneで撮影をしていて、その作品を集めたものを、先の芸術祭で発表を終えたばかりです。残念ながら、仕事の都合で僕は見に行けなかったのですが、以前から少しだけ見せてもらっていたので、おおよそは想像出来ます。まぁ、今までの作品世界とは全く異なったものなので、これも自分の中で何かきっかけがあったのだと思います。

まだ数カ月間しか撮っていないものを作品として提示することはすごく勇気のあることで、作品性云々は別にしてもその気持ちが潔いなぁと素直に感じます。これも吐き出さなきゃ・・・ということなんでしょうね。

作り手としては、際限なく自分の満足するところまで行うことが理想なんでしょうが、延々としてその行為を続けて行くことは強い意志と体力を要します。だから、ある程度区切りを付けて、発表する必要があるわけです。結局のところ、自分がもう満足だと思ってしまったら、その時点で終了するわけで、そうではないからまた続けるのですから、創造する行為だけに没頭していてもただ不毛なことなんだろうと思います。

作品は発表され見られることで、初めてその存在を明らかにし、人々の評価を受け、価値あるものになるわけです。作り手も然りです。創作ってそういうものだって気付いてしまえば、人前に晒すこと自体、何も怖いものではありません。

やっぱり、これもきっかけや気持ちが重要なファクターなのかなぁと思います。

2010年10月9日土曜日

アルゼンチンのメッシはやはり別格でした。

昨夜はサッカー日本代表戦を見ていました。対戦相手は南米の強豪アルゼンチンです。結果は皆さんご存じのように、日本の歴史的勝利と評され、各局がこぞってその結果を報道していました。確かに、親善試合とは言え、大したものです。ほんの少しだけ映し出された試合後のメッシの顔は、信じられないとばかりの表情でしたから、アルゼンチンにとっても信じられない出来事だったに違いありません。


それにしても、メッシは昨日のフィールドの中でも別格でした。彼がボールを持ち、ドリブルした瞬間、観客は何かが起こることと期待し、ワクワクしている様子が画面上からでも分かります。誰も止められないと言った形容は、決して大げさなものでなく、またどこに目が付いているのだろうとも思われるほど、パスセンスも抜群のものでした。

そんなメッシと一緒のフィールドで、肌でそのスピードやテクニックを感じることが出来た日本の選手たちはとてもよい経験をしたのだと思います。世界レベルを直に感じる機会はそれほどあるわけでは無く、選ばれた者しか体感出来ませんからね。

さて、スポーツの世界は、そんなレベルの差を数字や勝負事という明らかな結果として、晒されるわけだから、時に残酷なものです。アートの世界はどうでしょうか。すごく曖昧ですね。例え、コンテストで順位を決めるにしても、結局は相対的な評価なわけ(中にはそれぞれのポイントによる評価があるかもしれませんが)ですから、自分はそうは思わないという人がいても、それは当然のことです。

基本的に、写真も含めアートは他者との勝負事ではなく、自己表現を自分の内側で昇華し、そこから湧きあがる感情や感覚を他人である見る側といかに分かち合えるかだと、僕は思っています。そしてそれは、作家としてのエゴや思い込みによる押し付けであってはならないとも思います。

あぁ、メッシのような写真家がいないものかな。

2010年10月8日金曜日

ストレスフリーな世の中にはならないけれど・・・。

昨日気付いたのですが、明日からの週末は3連休の人が多いのですね。まるでそんな感覚がないのはちょっとまずいなと思いながらも、いつもと変わらない日々を過ごすことになりそうです。なんにしても、お天気がいいと良いのですが。


先日ギャラリー奥の部屋の件を少しだけ書きましたが、普段の日でもかなりの頻度でそこにいることが多いです。ひっきりなしにお客さんが来るわけではありませんから、暇を見ては資料を作ったり、企画を考えたり、時には写真集を見ていたりしています。

最近は、企画を考えていることが多く、アイデア・メモ的に思いついたまま一枚の紙に書いたりしています。正確には、PCに向かって特定のエクセル・ファイル上に箇条書きに打ち込んでいるのですが。ひとりブレイン・ストーミングですね。ひとりでやってもあまり意味が無いだろうと言われそうですが、僕ひとりしかいないので仕方ありません。

ブレイン・ストーミングの良いところは、先ず参加する人それぞれが自由であることです。結論や判断を出さずに、質よりも量、そしてそこから生まれてくるアイデアに便乗するように、あらぬ方向へと向かっていてもなんら咎められないことです。こんなことを話したら笑われてしまうだろうとか馬鹿げたことだとか、普段は自分自身でもつい押さえてしまいそうな意見を思ったまま言えるのがとてもいいなと感じます。

でもそう思うと言うことは、逆にこんな場が普段はどこにもないからですね。日常生活における家庭内や会社、地域なんかでは、どうしてもルールや慣習、その中でのポジションといったものがありますから、言いたくても言えないことばかりです。人は皆、意識無意識に関わらず、ほんの些細なことでもストレスを感じながら生きているわけです。

人が人である限り、ストレスフリーな世の中にはならないと思っています。ストレスをも楽しみとして生きることも、今の自分には出来ないだろうなと思います。それでも、嫌なこと困難なことに目をつぶり避けているだけでは、前に進めないことは現実としてあるわけで、やはり人として付き合っていかなければなりません。

今のところ、矛盾や不条理はあるものとして受け入れながら、やや楽観的と思われるくらいのスタンスでいようかと・・・。

けっして、あきらめや投げやりではなく。

2010年10月7日木曜日

ワークショップ「写真作品~展示・発表までのプロセス」

さてっと、今日は宣伝です。


一昨日、サイト上で告知しましたが、ワークショップ「写真作品~展示・発表までのプロセス」を開催します。

これは、写真を作品として、展示・発表まで行う為の様々な検討事項や方法等を順を追ってお話するものです。何か難しい内容と捉われるかもしれませんが、現在趣味として写真を撮られている方々にも充分に役立つものと思っています。一部の作家を目指す方々だけではなく、広く一般的に通じるものを分かりやすく解説出来ればと考えています。

カメラは全般的に高価なものです。何千円でちょっと買ってくるからというものではありません。買われるにはそれぞれの理由があるわけで、単なる記録の為にと考えてる方は、少ないのではないでしょうか。それだけでしたら、携帯で良いですからね。

ギャラリーを訪れるほとんどの方は、その雰囲気と並べられている作品を見て、とても敷居が高いとかレベルが高いと言われます。もちろんそのようなコンセプトを持ちながら行っていることは事実ですから、それは正しい感覚だと思います。模倣は上達の第一歩だと常々思っているのですが、それにはより良いものを見たり、感じたりしながら、自分自身でそれを消化し、実行としていかなければならないと考えています。そこから、自分自身が見えてくるのだとも言えます。

現在は”Sha-gaku”、”Story”と言った企画で、広く一般に扉を開けています。そして、そこで展示・発表するにあって、さまざまなサポートも行っています。ここで紹介している作家の方にしても、初めからこのような質の高い作品を制作していたわけではなく、失敗を繰り返しながらここまで来ているのですから、決して自分には・・・などと思って欲しくはないのです。

先ずはその一歩として、ワークショップに参加されることも一考だと思います。
多くの方のお申込みをお待ちしています。


ワークショップ「写真作品~展示・発表までのプロセス」
10月31日(日)16:00-18:00 延長もあります。

2010年10月6日水曜日

宇宙の塵を集めたヘラって。

6月に地球に帰還した小惑星探査機「はやぶさ」の試料容器から、地球外物質の可能性がある微粒子数十個が見つかったようです。大きさは、0.001㎜程度らしく、光学顕微鏡では発見できずに、特殊なへらを用いて集めた微粒子を電子顕微鏡で確認したとのことです。


今はそういった検査器具も発達していますので、発見する行為自体は特に驚きはないのですが、特殊なへらと言う部分に惹かれてしまいます。0.001㎜程度の微粒子を集めるへらってどんなものだろうと。

僕の場合、以前の仕事の関係で、常に0.01㎜程度までは普通の感覚で扱っていたこともあり、目に見えるもしくは手で触れられる小ささにはそれほど驚きはしません。逆に大きいものに対しては、ちょっと想像がつかないことがあります。

これまでいろいろなエンジニアと付き合いがありましたが、大きさに関する感覚ってすごく違っています。普段使用している単位が違ったりすると話をするにもかみ合わないことが多く、ましてや扱うものの大小により、その違いはますます大きくなります。

物理的に規定される1mmは特殊なケースを除いてはみな一様です。それでもその大きさに対する感覚は、人それぞれです。ある人は1000㎛、またある人は0.1㎝と感じますし、その人にとっての感覚に置き換わります。

まぁ、大きさなんて客観的に同じであると便宜的に決めたものだと僕は思っているので、みなそれぞれの感覚での大きさがあってよいわけです。むしろ、その方が自然な感じさえします。

それにしても、へらが気になるなぁ・・・。

2010年10月5日火曜日

こつこつと・・・。

ギャラリーレイアウトは、サイトでも確認出来ますが、入口から逆L字のような格好になっています。入口から拡がる部屋の奥に事務用の小部屋を作っているので、全くの長方形にはなっていません。普通、ギャラリーというと四角の箱のような感じを予想しますが、そのようになっていないのも特徴のひとつです。


奥の小部屋には、今こうして書いているPC、それに繋げているプリンターが2台とその他パイプ椅子やら梱包材等が置いてあるのですが、少々乱雑になってきました。こまめに整理していれば良いのですが、昔からそういうことが苦手です。最近はどこに何を置いたかを忘れることも多くなり、ちょっとまずいなと思い、少しですが昨日整理しました。

先ずはいらないものを捨てることから始まったのですが、これがまた捨てられないものが多く、結局はひとところにまとめて箱に入れたり、ファイルにまとめたりと案外面倒くさいものです。きっともう使うこともなかったり、見たりすることも無い資料類なんかは捨てちゃえばいいのにと思うのですが、踏ん切りがつかないと言うか、結局のところ優柔不断なだけです。

その割に、ホントに必要なものをどこにしまいこんだかすら忘れているのですから、片付けをしながら、情けない気持ちになってきそうになったので、昨日はそこで止めました。まぁ、それでも少しはきれいになったので、良しと自分を納得させましたが・・・。

やはり、何かを一気にすることって、それなりの労力と根気が必要になります。こつことと、カメが歩くごとくでも、常にやっていかないといけないですね。

当たり前ですが、これって何にでも言えることなんでしょうね。

つまりは気持ちの問題ですかと、誰に言うでもなく、ひとりごとのようにつぶやいていました。

2010年10月4日月曜日

近眼で老眼

僕は極度の近眼です。裸眼では視力検査の一番上がぼやけてしまい、おそらく0.02程度なんじゃないかと思います。高校の頃からメガネをかけ始め、もう何度となく買い替えながら過ごしてきました。日常生活には影響はありませんでしたが、45歳を越える頃に近くのものまでぼやけるようになってきました。いわゆる老眼ってやつです。


初めは一日中パソコンの画面を見ているので、ちょっと疲れ目ぐらいの感覚でしたが、いつも電車で読んでいる本が徐々に顔から遠くなってきているのに気付いた時には、多少ショックでした。仕事柄モノをじっくりと見れないといけなかったので、不便になり、遠近両用に変えたのが、46歳の頃だったと思います。

近くが見えないことで困ることは、たとえばA4とかA3程度に記入されている文字や絵なんかを全体で眺めている時に、細かい部分が曖昧になることです。パッと見て、そこに気付く確率が減るのです。少し遠目で見ちゃうと近眼の影響が出てくるので、その辺の間合いが難しくなりました。

そんなこともあり、気になったところは極端に目を近づけて、裸眼で見る仕草が増えてきました。メガネを外してモノをじっくり見ているお年寄りに良く見られる光景ですね。そうなってくると、今度はそんな仕草が頻繁になってきている自分自身に対する不便さと言うより、その行為そのものが哀しいと思うようになってきたのです。

当たり前のようにしていたことが出来なくなったり、出来なくなって初めてその状況を思い知らされることは、誰にでも経験のあることだと思います。その原因は年齢による衰えであったり、不慮の事故であったり、病気であったりするわけですが、僕の場合、こんな些細なことですが、やはりそう感じずにはいられませんでした。

それでもそんな感情はいっときで、いちいちそんな気持ちのまま生活してもいられません。もっともっと大変な思いをしながら生きている人は大勢いるわけですから。

よく人から変わってますよねとか言われることがありますけど、僕も人並みなのです。普通に年をとり、その年相応の衰えを感じ、些細なことにくよくよしながら、それでも嬉しいことや楽しい瞬間やひとときがあるからやっていけるのです。

さて、今日は休みです。

何から片付けようか・・・、やってて楽しい順番にしてみますか。

2010年10月3日日曜日

アート作品を購入すること

昨日からハービー・山口、ヨーガン・シャドバーグ Two in One in Englandが開幕しました。毎回来ていただいている方を始め、ハービー氏の作品を目当てに久しぶりに見えられた方など、まぁボチボチといったスタートです。2カ月の会期は一般の方には長いように感じられるようで、特定の期間に集中して来られることはあまりありません。


ハービー氏もヨーガン氏もプロの写真家です。このような展覧会を開催するには当たり前ですがそれなりの経費が発生します。展示作品は鑑賞していただくと共に、購入してもらうことでギャラリーとして成立するのですから、その為に会期は長めになっているわけです。と言っても、日本の写真全体の環境を考えると、投資やコレクションを目的とされている方は非常に少ないのが現状です。

日本の文化環境全体は、首都圏一極集中で行われてきたこともあり、地域にとってはますますその市場を小さくしています。まぁ、簡単に言うと、購入することに慣れていないと言って良いと思います。人は何かモノを購入する時に、誰でも費用対効果を考えます。自分が考えた通り、そこから見合ったものが得られるかどうかです。それは、個人よりも組織、会社にはもっとも重要なポイントになります。

言葉を変えるなら、写真を始め多くのアート作品を購入した時に、その人に対して何をもたらしてくれるかと言うことになります。作品の価値は、とてもパーソナルな部分に依存していると思っていますので、その部分が非常に難しいですね。ひとつの回答としては、作品という形あるものから、無形の感動や喜びそして共感、癒しといった気持ち的な高揚や安らぎを得られるかどうかだと僕は思っています。そして、そんな作品に出合った時に手にしたいと感じるのです。

乱暴な言い方ですが、おいしいものを食べてからだと心が満足するのと一緒なのです。唯一違う点は、作品が目の前にずっと残っている点とそれを見るたびにその時に受ける印象や感じる部分が違ってくることです。そして、その感覚は、所有者にしか分からないもので、しかも他の人に説明しにくいものでもあります。

僕は、多くの人に、そんな出会いをしてほしいと思っています。

そして、それは制作する側の願いでもあるわけですから。

2010年10月2日土曜日

時の進み方

さて、もう10月になってしまいました。


今年も残り3カ月です。ホント年々月日の過ぎ去るスピードは上がっています。つい2日前程の出来事も、遥か遠い昔の記憶に感じられることがあります。

人は誰でも限られた時間の中で生きているわけですが、その流れにおける時の進み方は人それぞれです。密度というか濃さが違っています。例えば、1年後の自分を遠い未来に感じるか、それとも非常に今と近しいものとして感じるかは、その人自身の年齢にも寄ってくるものです。

僕も10代の頃は、現在の自分を全く想像出来なかったし、生きているとさえ思っていませんでした。ところが、徐々に年齢を重ねてくると、自分自身の先の姿がおぼろげながらも見えてくるようになります。それは、ある意味自分が何者であり、社会の中での存在や立ち位置を否応なしに感じるからだと思います。

そうして、無意識のうちに残された時間を感じてくることが、その人自身の時の進み方を決めていくような気がします。流れのままに自然に行くことが一番良いには違いないのですが、そうはいかないのが世の常です。まぁ、未来なんて誰にも分からないのですから、なるようにしかならないと思っていた方がよほど気は楽なのです。それでも、時間には限りがあります。これは誰もが分かっていることです。

何とかしなきゃとかこれをこうしなきゃとか、はやる気持ちを抑えながらも、今を見つめながらひとつひとつ考えていくしかないかなと・・・。そうすれば、少しは折り合いも付いてくるかもしれないと思います。

2010年10月1日金曜日

"Two in One in England" いよいよ明日開幕です。

ハービー・山口 、ヨーガン・シャドバーグ写真展 Two in One in England がいよいよ明日開幕となります。今回の写真展を企画したのは、昨年11月に行われたハービー・山口 Big Loveが好評であったこと、また、その時見逃してしまったとかギャラリー自体をまだ知らずに見ることが出来なかったとの声が発端になっていますが、当ギャラリーでの初めての外国人写真家の紹介にもなります。


ヨーガン氏は日本ではあまり知られた写真家ではありませんが、「南アフリカ写真の父」と呼ばれ尊敬されている方です。1960年代に撮影されたイギリスの市井の人々には、貧しさや生活の苦労の中にも懸命に生きている輝きのようなものが備わっています。そして、ヨーガン氏との出会いが、ハービー氏のその後の写真家人生を決定づけたとも言えます。

ハービー氏の今回の作品は1970年代のイギリスです。同じイギリスと言っても、時代背景や撮影している街も違う為、単純に比較することは出来ませんが、共通して言えることは暗く閉塞した世の中でも、人は懸命に生きているし、明るい未来を信じてもいいんだと言うことです。これは、現在にも通じることだと、僕は思います。

難しいことは何も考える必要はありません。素直に見て、少しでもその優しさやたくましさを感じて欲しいと思います。社会も人も未来永劫ではありませんが、継続していくものです。そして、それは終息に向かう道であって欲しくないと誰もが感じていることだと思います。

ここ数日これらの作品に囲まれながら、果たして僕は未来に対して何を残せるのだろうかと考えたりしています。大したことが出来ないことは分かってはいるのですが、何故かそんな気持ちになってしまうのです。



ハービー・山口 ・ヨーガン・シャドバーグ “Two in One in England”
2010年10月2日(土)~12月5日(日)
13:00~19:00 / 休廊日 月曜日 / 入場無料
Kalos Gallery