2011年5月31日火曜日

展示方法の検討

昨日の休みは、一日中次回”Love and Joy”の展示方法について検討していました。


普通、参加者個々に漠然とした展示イメージを持っているもので、僕の方はそれらを具体化するのにもっとも効果的で適正な費用で持って可能な手段を提示します。要は、ラフスケッチからある程度までのデザインまでを行って、少しだけ具体的な内容が見えるようにするだけです。最終的に決めるのは僕ではありませんからね。

それでも、この作業には結構時間が掛かります。いわゆる一般に考えられる展示方法以外のことを検討し、調べなければならない部分が多いからです。写真ギャラリーとして、マットと額さえ準備してもらえば良いだけでは?と思われる方もいるでしょうが、一からそれらを準備することは、展示経験の少ない方にとっては大変なことで、また、全てを画一的にしてしまっては、作品としての個性が出ないものとなってしまいます。

作品そのものとその世界観は、展示によって、印象が変わります。より、見せることを意識しないと、独りよがりでつまらないものになってしまうし、また作品の作り手として作品制作そのものが主になりますから、そこまで考えが及ばないことが多いものです。

そこで、第三者である僕がいるわけです。僕は様々な展示を見ていますし、その度に感心したり落胆したりしています。こうすれば面白いのにとかこれじゃ作品が可哀そうだなと感じることも良くあります。

そして、ここが大事なところなのですが、彼らとは実際に会ったり、メールでやり取りをしながらコミュニケーションを取り、展示までと進めていますから、100%理解出来るわけではありませんが、したいと思うポイントはつかんでいます。そのポイントを外さないようにと思いながら、検討しているわけです。

まぁ、最終的には本人に決めてもらうのですから、たとえ僕の提示したものが気に入らなくても、僕としてはそちらの方を尊重するようにします。

これも、自己表現なわけですから。

2011年5月30日月曜日

元気

元気


いつも耳にする言葉であり、常日頃特に考えるでもなく出てくるものです。

心身の活動の源となる力、体の調子がよく、健康であること、天地の間にあって、万物生成の根本となる精気、辞書で調べるといくつかの意味があります。英語でもたくさんの単語や形容詞が出てきます。

文字として見ると、元気の気は、まさしく気持ちであったり、内側、外側にある気のようなもので、そしてそれらの大元を表わしているわけで、それ自体は姿、形として見えるものではありません。それでも、この見えないものが、僕たちに様々な影響を与え、結果として形に表れてくるのだと思います。

そして、それは周りの環境や状況により大きく変化もしますが、やはり自分自身の心の内というか、とても個人的な部分に関わっている方が多いのだと最近は良く思います。テレビやメディアから毎日流れてくる元気という言葉を聞くたびに、殊更にそんなに言わなくても、と思ってしまうのは僕だけなのかもしれませんが、そう感じている僕でさえ、知らず知らずの内に他の人に対して使っているのですから、やはり誰にとっても必要不可欠なものなのです。

多くの人は元気でありたい、他の人に与えられるものならそうしたいと考えているはずです。たとえ、絶望の淵にあったとしても、そう考える人たちは多くいるのですからね。

そして、元気ってやはり見えないものだから、小さなことでも行動することや形に表すことで感じたり、感じてもらうしかないよなとも思うわけです。

言葉だけでも人は勇気づけられたり、癒されたりするもので、それで元気になったりもします。

さらに、見えるものとして感じてもられたなら、もっと良いのだと。

無理せずに、自分の出来る範囲で、そして、自分だけの世界とは思わずに・・・。

2011年5月29日日曜日

Northeast Photographers “relation” in Miyagi 本日開幕

本日より、Northeast Photographers “relation” in Miyagi が始まります。


会場の様子はこんな感じです。



タイトルは東北の写真家と、少し固いイメージを受けるかもしれません。今回は宮城の方々だけになってしまいましたが、本来は地域それぞれで写真表現活動を行っている人々の繋がりから、お互いに刺激を受けたり、化学反応を起こしたりしながら、写真というありふれた手段に大きな可能性があることを地域から発信したいとの願望があります。


中には対象として地域特有のものを感じるものもありますが、基本そんなことは関係なく、この場で表現をし続けていることが大事なことです。僕の中では、表現というものは基本個の発信であることが根底にあるからです。

さて、今回の展示を終えた印象は、いい意味で大人の写真展だなと。

皆さんそれぞれに発表に際しては力が入っているのでしょうが、力みは感じられず、素直なんですね。かといって、スーッと流して見てしまえるものでもありませんし、見るほどに深みを感じられると思います。

今日はあいにくの雨ですが、会期も長いですから、是非見にお越し下さい。

Northeast Photographers “relation” in Miyagi
2011年5月29日(日)~6月26日(日)
13:00~19:00 / 月曜日 休み
入場料 \300(期間中、何度でも入場出来るパスポート制)

2011年5月28日土曜日

台風が近づいている

どうやら台風が日本に近づいているらしく、直接の影響はないのですが、やはり空はどんよりと曇り、今にも雨が降ってきそうです。


今日、明日と近くの勾当台公園付近でイベントがあるのですが、みんなこの日の為に準備してきているわけで、水を差して欲しくないなぁと思います。

ギャラリーも明日からの開幕を向え、急ピッチと言うほどではありませんが、徐々に壁が埋められていってます。今日もこれからすぐに最後の展示があります。これで、展示は完了、キャプション類は既に設置しているので、すぐにもお見せできるようになります。

展示会準備はとても順調に行われているのですが、僕の方は並行して次回や次次回の企画についての調べ事とか検討内容をまとめたり、いろいろと雑用が多く、ちょっと落ち着かない毎日です。まぁ、ひとつひとつクリアにしていかないといけないわけだし、どれひとつとってもないがしろにしたくはないから、地道にやるしかありません。若干腰の調子も良くない感じなので、無理せずにですね。

昨日、この場で抜けているところはないか、自分!と気合を入れるようなことを書いたけど、今朝は、そんなに気負わなくてもいいよなとも思っていたりして、お天気同様、全くもって気まぐれです。

まぁ、自分の中の核であったり芯のようなところさえ見失わずにいれば、それで良いのです。

2011年5月27日金曜日

抜けているところはないか、自分!

早いもので、明後日にはNortheast Photographers “relation” in Miyagi が始まります。


さて、状況はといえば、菊地さんの「残された航跡 Ⅱ-軍艦島1992」の展示が終了しただけです。大丈夫?間に合うのかいとささやく声が聞こえてきそうですが、まるで焦ってはいません。この為に何カ月も時間を掛けてきたのですからね。

作品はほぼ揃っているし、今日、そして明日にかけて予定通り作業を行うことだけに専念すれば良いのです。前にも話したかもしれませんが、この時期が僕にとっては一番楽しいのです。形として現れる瞬間を、僕が一番最初に見られるのですから。

現実と想像が一致しない場合もありますし、そんな完璧に出来るわけはないと始めから思っているので、不安も感じません。不意のアクシデントも楽しむくらいの気持ちでいるわけです。

世の中は結果のみを求め、そこでしか判断されないことが常で、確かに客観的にはそこしか見えないわけで、しかも当事者以外は経緯やいきさつなんて知る由もありません。作品そのものも展示された時点でしか、ハッキリと姿を現さないのですから、これは致し方ないところではあります。

結果責任は自分にあり、評価は見る側に委ねるしかないとの考えはずっと変わらないのですが、企画に参加される方々に対する自身の評価は発表までの過程に寄ってくるものです。また、自信や手ごたえのようなものって、すぐに表れるわけではなく、過程の中で生まれ始めてくるものですからね。

とは言え、あまりのんびりとしてもいられません。

抜けているところはないか、自分!と言い聞かせながら、今日もスタートです。

2011年5月26日木曜日

何度でも

昨日に引き続き、今日も音楽の話。


というのも、昨夜見たNHK “SONGS”でのドリ・カムのステージ・ライブがあまりにすばらしかったから。わずか30分にも満たない音楽番組のそのステージに思わず感動してしまったからです。

吉田美和さんが作る詩の世界は、とてもストレートで素直です。妙に意味深なところも無く、易しく、そして優しく心へと伝わってきます。曲に関しては、専門外なのですが、リズムや旋律、コード進行とか転調であったりとか、かなり高度なテクニックもあるのでしょうが、聞く側にそんなことを考えさせることなく、自然に耳に飛び込んできます。

昨夜のステージは自らが選曲し、構成をしたものとのナレーションがありましたが、震災を意識していたとはいえ、それだけではないもっと大きなものを感じました。ベタで気恥ずかしい言葉だけど、愛のようなもの。

彼女が途中「絶望の中にいる人々にとって、音楽が生きる力になるかどうかはわからないけど・・・」と話していたところがありましたが、すごく共感してしまいます。アートの存在って、ふと偶然耳にしたとか、目にした時に、心地よい気持ちになったり、癒しや安らぎを感じられたり、或いは驚いてしまったり、哀しくなったり、そんな程度で良いのかもしれません。

それから続けて、曲を発表し、歌い続けていることがない限り、偶然にでもそんな機会に触れられないわけだから、そうしていくからと話していたけど、それってほんとうのところなんだろうね。

7月予定の “Love and Joy” まだこれからなんだけど、何か後押しされている気分になってきます。

昨夜のオープニングがこれ

2011年5月25日水曜日

空と海の輝きに向けて

未だ床に山積みにされているCDDVDを眺めていて、その一番上にあったアルバムです。


1973年リリース、荒井由実さんのファーストアルバム「ひこうき雲」。


初めてこのタイトルでもある「ひこうき雲」をラジオで聞いた時の衝撃は今でも忘れません。おそらく中学生だったと思います。その後、さまざまな音楽に出会い、何年かした後に友人にテープにダビングしてもらい、擦り切れるほど聞いた覚えがあります。

昨日、何気なく手にして、ギャラリーで聞いたのですが、やはりいいですね。ちっとも古さを感じさせないし、すでにオヤジとなった僕でさえ、その詩の世界は瑞々しいほどに心に伝わってきます。

このアルバムの中で、僕が当時好きで聞いていた曲は、これ。

「空と海の輝きに向けて」

彼女が高校生の時に作ったと言われているのですが、表現している世界観やスケールの大きさ、そして感性の豊かさに今でも驚かされます。



どんな状況であっても夢や希望は持てるし、いや、逆に持つことの大切さ、そしてそれに向かっていくにはいくらかの覚悟も必要なのだと思います。


そんな当たり前のことを、僕に思い起こさせてくれます。

2011年5月24日火曜日

みんな楽しめるように

明日から徐々に展示が始まる予定です。黒田さんの作品は壁から取り外し、梱包まで終了しています。ホント取り外しは早く終わってしまうもので、引っ越しのようにひとつひとつ丁寧に箱に収めていくだけです。引っ越しと違うのは、案外感傷的にはならない点です。箱に入れるたびにあれこれと思い出に耽ることはほとんどありません。


一方展示はあれこれと悩みながら行う場合があります。今はおおよその展示レイアウトを前もって検討していますので、行き当たりばったりですることはありません。それでも、実際してみると、感じがちょっと違っていたり、こうじゃない方がいいかとか思えたりもするので、撤収よりは時間も手間もかかります。

でも、そういう時間が一番楽しいのですよね。自分が生み出した子供らの晴れ姿を、よく見せたいのは誰しも考えることで、思い通りに出来上がってくる様を眺めながら、悦に入ってしまうことはよくあることです。その感覚は実際してみないと分からないだろうと思います。

Northeast Photographers “relation” in Miyagiは、3名のよる写真展です。3名はそれぞれ違った日に展示を行います。自分の都合に合わせて、行うわけです。今までも、グループ展の様相はしていても、一斉に決められた日時に行うことはまずありません。だから、本当に徐々に壁もうめられ、全容が一気に見えることはありません。今まで思い描いて来たものとの小さなギャップが良い方向へ進む場合もあります。もちろんそうでないこともありますが、人の作りだすことですから、これも楽しみながら行っています。

さて、今日は明日からの展示準備です。僕もそして参加する方も一緒に楽しめる為に。

そして、一番大事なお客さんが楽しめるように・・・

そんな思いが詰まった数日間が始まります。

2011年5月23日月曜日

終わりは次の始まり

昨日、黒田克夫写真展『Origin and its Possibility』が無事終了しました。ご来廊下さった皆様には改めて感謝をいたします。


今回の企画展は、震災直後の中、写真の原点とその可能性をテーマに、起こしたものです。準備期間もままならぬ状態ではありましたが、その思いは示せたのではないかと思っています。

生活とは直接関係を持たない文化、芸術は、震災により、その存在自体僕自身考えさせられるところではあったのですが、一方で歴史が証明しているように様々な形で関わりを持っていて、決してすたれることが無いと信じています。なぜなら、表現は、常に自分の心の内にある根源的なもので、それを思い思いに表わすこと自体、自然なことだからです。

写真においても、他のアート同様にその役割があるし、それらを持って人々の心や生活に潤いや安らぎ、感動を寄与することは出来るはずです。

もし、今自分でそう感じる方は、是非ともギャラリーを訪れて下さい。
そして、その事実を肌で感じて欲しいと思います。

次の企画展のNortheast Photographers “relation” in Miyagi は、5月29日(日)から開幕する予定です。

今日から撤収や搬入と様々な作業が始まります。のんびりとはしていられません。

また、8月予定のSha-gaku vol.3も現在募集中です。
皆さんのご参加を心からお待ちしています。
http://kalos-gallery.com/event/planning.html

終わりは次の始まりの時です。


動き出さなければ、何も始まらないのです。

2011年5月22日日曜日

「いつものように」

今日が最終日です。外はどんよりとした曇り空、と見上げていたら、雨が降り出しました。僕は雨男というわけではないのですが、企画展最終日がすっきりとした晴れだった記憶があまりありません。と言っても、イベントがあるわけでもなく、今まで通りにお見せするだけですから、ほんの少しの寂しさも感じつつ、いつものように開くだけです。


誰しも、時々は、いつもとはちょっと違った何かを期待することってあると思います。元来変化を嫌う人でさえ、毎日同じことの繰り返しでいいのかと思うこともあるだろうし、たまには気分を変えたいと考えるはずです。単純に気分を変えたいだけなら、自分の出来る範囲で行えますし、ある程度の期待感は満足に変わるかもしれません。

自分ひとりだけではなく、他を巻き込む場合において、何かを期待し、行動するにはちょっとだけ勇気が必要になります。僕もそうですが、それって決まって良い事を想像しているし、誰しも嫌な思いをしたい、させたいとは考えません。そして、大抵の場合は、そんなことはありえないなとかまだ時期尚早と感じ、多少不満ではあるけれど今の状況を良しとして、変わらない毎日を選ぶわけです。それでも、どこかでくすぶりの種は残っていたり、このままではつまんないよなとも感じながら、自分で出来ると思えるその機会を待っているのだと思います。

一方、「いつものように」する、それを長く続けることって、実はとても難しいことだと僕は思っています。なぜなら、人は一度しか生きられないわけだし、その中で成長したいとかもっと違った経験もしたいと思うのが自然な考えですし、それには自らを変える行動を取る必要があるからです。気持ちだけで動いてしまう事だってありますからね。

だから、「いつものように」は、何かを行うことへのアプローチであって、そこまでの猶予期間でもあるわけで、ただいたずらに時間だけが過ぎていくものではないのです。

さてと、いつものように準備をしますか。

2011年5月21日土曜日

変化

昨夜なのか今朝早くなのかは分からないけど、雨が降ったようです。ギャラリーの前の道路が濡れています。天気予報ではかなり気温が上がると話していましたが、打ち水を打たれたようで、外もそうですが、ギャラリーの中もまだひんやりとした空気に包まれています。


知らず知らずの内に、いや当たり前のように季節は変わり、時間は日々過ぎています。決して後戻りすることなく、前に進むしかない時間の流れは、過去を置き去りにしながら未来を現実へとしていきます。そして、それは自分にとっては何も変わらない毎日のように感じられたとしても、少しずつ形を変えているように思えます。

よく、「眠ることは小さな死」と言われますが、もし現実にそうなのだとしたら、僕たちは時の流れと共に、一日一日生まれ変わりながら本当の死へと向かっていくことになります。同じように見えても決して同じではない自分が、日々再生され、最終的に死ぬわけですね。

周りも同じように変化を続けているとしたら、今この場で見えるもの、触れられるもの、そして自分自身も含めて、まるっきり同じことって一瞬にしか存在しないことになります。普段それを意識しながら生活し、生身で感じられたとしたら、あまりに煩雑すぎて生きていられないかもしれません。

その為に、日々繰り返されている小さな変化には案外鈍感であるというか、慣らされた環境として受け入れられるように出来ている一方、ドラスティックな変化には思った以上の抵抗感を感じるのです。言いかえれば、良く分からない程度の小さな変化を繰り返し受け入れながら、結果として大きな変化となっていくことの方を望むのですね。

変えられない、変えてはいけないところも必ずあるのだから、その方が良いのかもしれないけど、「小さな死」が毎日訪れ、やがていつ来るとも分からない本当の死があるのなら、生きている瞬間、まさに変化しているその時を意識し、見つめ、受け入れ、行動していかなければと思います。

たとえ、それが天地をひっくり返すような変化であっても。

2011年5月20日金曜日

次回写真展準備、密かに進行中

次回写真展である Northeast Photographers “relation” in Miyagi の詳細が見えてきました。まだ1週間というか、もう1週間と言うべきなのか、自分としては案外のんびりとした感じで進めています。参加される方々は最後の追い込みで大変なのでしょうが・・・。


タイトルは、東北の写真家 宮城の「繋がり」と訳せるわけですが、日本語にするといかにもといった感じがします。今回は宮城県内在住の3名になっているので、Miyagi と付けていますが、本来は東北全体の繋がりを意識して企画したものです。

かと言って、宮城県内だけの参加者で、グレードというか拡がりの無い企画になってしまったかというとそうではありません。非常に個性的な世界観を持ちつつ、作品内容で見る側に迫ってくるものですから、見応えは充分にあると考えています。

展示については、ほぼオーソドックスな形で行われます。なので、見た目の派手さはありません。だから、写真作品一枚一枚をじっくりと見てもらい、全体の世界観がゆっくりと心に沁み渡ってくるような感じになればと思っています。

実は、当初は三人三様の個性が火花を散らし、まとまりのつかない(繋がりの感じられない)ものになるかもと考えていました。そんなことも考慮して、DMも3パターンにしたのです。まとめてひとつではなく、ひとりひとりの個性が直に見えるようにとの考えです。そして、そこにある姿勢や思いみたいなもので、3つの繋がりを感じられればよいかなと思っていました。

Sha-gakuもそうなのですが、たとえグループ展の形であっても、まとまりの中の単なる構成にはなって欲しくないとの気持ちがいつもあります。周りの人たちと明らかに違っていたとしても、自分の作品世界を拡げることを優先して欲しいのです、遠慮なしにね。

コンセプトは大事なものです。でも、あまりそれに捉われてしまっても仕方ないとも思いますし、実際それだけ?と思わせてしまう企画展もよく見かけます。

そうでは無いものをお見せしたいと密かに意気込んでいます。

お楽しみにお待ち下さい。

でも、その前に黒田克夫写真展を是非見に来て下さいね。

こちらは、僕が皆さんをお待ちしています。

2011年5月19日木曜日

気軽の声をかけて下さい。

さてと、黒田克夫写真展も残り4日となりました。これまで、共通して言えることは、最終週に一番お客さんが来られることです。まだしているから、もう少し先でもいいかと思われる方が多いのだと想像しているのですが、写真展をしていることを気づかずにいて、偶然何かのメディアで紹介されているのを見かけ、滑り込みで来られる方もいらっしゃいます。


僕自身の広告・宣伝の仕方が悪いのだとは感じてはいるのですが、大抵の方はよほど好きなアーティストや作家でない限り、常にどこで何をしているかの情報を集めようとはしませんから、どこかで気づいてくれた事はお互いにとって幸運なのかもしれません。

大きな文化施設にある会場の場合は、他の用事で来ている方々が偶然目にして会場に入って来られることもありますが、ギャラリーは全く別物です。見ようと思わない限り、来られることはほとんどありません。友人、知り合い、仕事がらみのお付き合いという部分はあるにしても、大抵はそうです。

だからということでもないのですが、ギャラリーにおられる時間は平均して長いように思います。傾向として、サクッと眺めて帰ろうかと思われるお客さんが少ないのが特徴と言えます。まぁ、僕も話し出すと長いので、仕方なくお付き合いして下さっている方もいらっしゃるとは思いますが、それでも1時間、2時間と聞いて下さるのですから、いつも有り難いことだなと感謝しているのです。

僕は見た目にも取っつきやすいタイプではありません。話も上手ではありません。おそらくは、このギャラリーという非日常の空間がそうさせているのだと思います。少し変わったギャラリーだから、そこに少し変わった人がいてもそう変わったことでもないよね、程度なのかもしれません。

最近、どうもグチっぽくなっているのを注意はしているのですが、もし嫌でなければいつでもお相手します。気軽の声をかけて下さい。

2011年5月18日水曜日

乾いた大地に雨水が際限なく吸収されるように、さまざまなものが自分中に入り込んでくる時期が誰にでもあります。具体的には赤ん坊の頃はみな自然に立ちあがり、言葉を覚え、話し、あらゆる生きる為のすべを吸収します。文字通り無垢であることから、親や周囲の環境により、色付けられる時期でもあります。


この時期は、ごく自然に、自分自身で取捨選択することも無く、そして何の疑いも無く、あらゆるものを無条件に受け入れてしまうものです。その為、この時期が人にとってはもっとも大事なんだと思います。いわゆる原体験というべきものですが、これが自分では気づかなくても、のちのちまで残っているからです。記憶ということではなく、あたかも、もともと身に沁みついていた塊りのようなものです。それから、学習や経験、周りの環境、そして様々な人との触れ合いから、徐々に自分自身の考えや行動を身につけていき、それは年齢と共に変化していきます。

やがて、その塊りは大きな柔らかいものから、様々な形へと変わっていくように思います。大きさは人それぞれで、ほとんど自分にも分からない程小さなものになったり、或いはまだまだ大部分を占めるほど大きなものであったりするのですが、それらの影響力が我や個性、意思や行動に表れてくるような気がします。

震災以降、よく東北人気質を言われている機会が増えていますが、僕自身は一様にそうだとは感じていません。気質は育つ環境により大きく変わるもので、今ある塊りの大きさや濃さによっても違ってくるものだからです。だから、そうじゃないよなと感じている人は案外多いのだと思いますし、実際、僕にある塊りはすごく小さいものなのかもしれません。

それでも、塊りが小さいからと言って、東北人の気質がないのかと言われればそうではなく、壊れにくい強固なものとして残っているのだとも思っています。

ただし、それを過剰に意識しすぎるのはいかがなものだろうかとも思うわけです。またそう言われることを素直に受け止め、ただ耐え忍ぶ事を選んでよいのか、と。

おそらくは、今、それぞれが持つ塊りの意味や重さを見つめ直す時なのです。

出来るだけ素直に、そしてそこから見えてきたものを遠慮なく表現や行動として表わさなければいけないのだと僕は思うのです。

2011年5月17日火曜日

したいなと思う気持ちは、早く形にしてみましょうよ

いつかは自分の写真を作品として展示し、発表してみたいと考えている人は案外、多くいらっしゃるのではないでしょうか。そして、その中の大抵の人は、それほど気張らずに、かと言って単純に並べるだけの展示ではなく、自分なりのメッセージ性を持ったもので発表したいと考えているように思います。


そこで、はたと自分の写真にテーマやコンセプト、自分が伝えたいものや見せたいことがあるのかどうかを考えます。しかしながら、テーマやコンセプトを考えた上で撮影をしている人なんて圧倒的に少数ですから、考えるというよりも、困惑すると言った方が当っているかもしれません。

そして、そこから先へ進むことが難しいと感じ、こりゃ、まだ出来ないなと諦めてしまう方も現実としていらっしゃいます。中には、まだまだ自分の写真はお見せできるほどのものではなく、もう少し技術的な部分の上達が必須と考え、木が熟すのを待つと考えている方もいるのでしょう。

でもね、そこで考えることを止めてしまったり、きっともう少し続けていれば自然に芽生えてくるものだと思っている人は、その場その場でそう思ってしまい、結局は何も出来ないまま終わってしまうものです。仕事だって、相手に何かを伝えようとする時、より分かりやすくとか相手の身になってとか、あれこれ考えるわけで、そこには方法論や経験が重要な要素ではあっても、先ずは伝えるべきものが自分自身で明確になっていることが大切ですよね。

表現も同じことだと、僕は思っていて、自分自身で説明や考えが及ばないものを、人がそれを受け入れ、またはそこにあるメッセージが伝わることなんてありえないのです。なので、公募展なんかに参加して下さる方には、先ずは自分の写真を何度も見ることをしてもらっています。感性だけではなく、考えながら見ることです。

そして、それらから思い浮かぶフレーズや類型といったものから、やがて、ひとつの終着点のようなものが見えてきます。そこまで行くと、後のことは大抵、自然に動き出すものです。だから、僕はそこまでのきっかけを与えているに過ぎません。何故なら、本当のところは僕ではなく、本人にしか分からないからです。

前置きがだいぶ長くなってしまいましたが、

結局のところ、したいなと思う気持ちは、早く形にしてみましょうよということです。

形になってこそ、初めて人に理解されるものなのですから。

Sha-gaku vol.3は、その場でもあります。

是非ともご参加を!

(結局宣伝になってしまいました・・・。済みません)

2011年5月16日月曜日

本会期中最後の休日

本会期中の最後の休日です。ということは、残り1週間となりました。
まだ、ご覧になられていない方、もう一度見ておきたい方は是非時間を作って来ていただきたいと思います。

毎日四六時中お客さんがいらっしゃるわけではありませんから、普通に時間を拘束され仕事をされている方に比べると遥かに自分の時間はあります。もちろん誰かにあれをやれ、これをやれと指示されることもありません。なので、今思いついていることや考えていることが、仕事なのかプライベートなのかを明確に決めることが難しいと思うこともあります。

自分の興味で調べていることが、以前は本当に個人の趣味の範疇であったのが、いつしか仕事に繋がっているなんてことがあるので、自分の好き嫌いのみで判断するのは危険なことです。組織に属している時は、前提として大きな意思がありますから、その範囲内で行っている(自然にあるいは気づかないまま)のだと思います。その枠が無くなった時、果たして自分の好き勝手出来るかというとそうでもありません。

自分によほどの自信があり、それを世間も妥当だと認め、必要なものと認識されているのなら話は別ですが、そうであることは案外少ないものです。ギャラリーと言ったって、これもひとつの商売に過ぎませんし、ましてや営利を目的とし、それを達成することで存在出来るわけですからね。

でも、その為だけに、自分自身を制限したり、ある考えに固執するだけでは、面白くもなんともないわけで、やはり個人としての柔軟な対応も必要だし、譲れない部分も合って良いのだと思います。会社という組織には社風や社是があります。一般の人にはあまり知られなくても、何となくそれらが個性やらしさになって表れてくるもので、その部分に共感を持たれたりもします。

僕はそれらを写真展という具体的な形でお見せしています。その為の構想や準備が仕事の大半を占めていると言って良いのです。そして、少なからずギャラリーと関わって下さる方々の気持ちや考えを汲めるようにするにはとか、作家の世界や表現をより伝えるにはどうすれば良いかを考えているわけです。(出来るだけお互いに妥協しない形で)

ですので、残念ながら、この場で見ていただけないことには、何も始まらないのです。

2011年5月15日日曜日

今だから、もっと個人的に楽しもう。

いつの間にか5月も折り返し地点になりました。ホント、月日が経つのは早いものです。それにしても昨日の風の強さは異常なほどでしたね。生まれた土地ながらも、これほどまでに風が強いとの印象は無かったのですが、いやいや関東のからっ風にも負けないほどです。


昨日は中国からの黄砂で何か景色もかすんで見えるようでしたし、この強い風が沿岸部に残るがれきからの粉塵を飛散させていることを思うと、早く収まってくれよとじっと空を眺めていたように思います。

そんな状況もあり、ギャラリーはとても暇でした。昨日福島から来てくれた江口さんの話では、一番町は混雑していて震災前程度に戻っていたとの事ですが、この辺は一番町から徒歩20分圏内ではありますが、人通りも車も少ないままです。まぁ、繁華街でもありませんから、当然なのでしょう。

お客さんが来られることとお天気の関連はかなりあります。また、この震災はまだどこかで、自分が楽しむこと自体はばかられる様な気持ちを抱かせてしまっています。なので、地域復興も含めて、生活に直接関わる消費は徐々に上がっていますが、それ以外はより身近なところで済ますか、或いはまだそんな気になれないのが本当のところなんだと思います。

いろんな意味で、時間が必要なんでしょうね。

でも、そうこう考えているだけでも時間は過ぎていき、いつのまにか震災から2カ月が経ってしまったような気もします。

だから敢えて言ってしまいますが、今だから、もっと個人的に楽しみを感じながら、生きましょうよと。楽しむことは決して悪いことでも罪でもないわけで、その事で近しい人々を楽しませることだって出来るのですから。

自分自身、それから家族、友人、そして近しき関わりのある人々へ楽しさを分け与えられることって素晴らしいことだし、案外難しいものです。多くの人の為にとか、こんなことって他の人には理解出来ないようね、なんて考えてしまうと、たぶん前に進んでいかないと思いますし、そんなところはそれが出来る人に任せればよいことです。

だから、先ず自分が楽しめることが大事なんだと、僕は思うのです。

2011年5月14日土曜日

いつもとは少し違った朝。

2、3日前からBloggerの調子が悪く、昨日はずっとメンテナンス中、今朝6時から8時までは設備点検で停電ということで、昨夜はPCの電源も落とし、若干イラッとしながら自室へ戻りました。いつものように起きた時には、既に停電中でさてどうしようかと考え、取りあえずはワンセグで朝のニュースを見ながら、2ケ月前もこんな状態だったことを思い出していました。


地震がないだけマシと思っていると、予定よりも少し遅れて電気がつきました。部屋中が蘇っていく感覚に捉われて、ちょっと遅めのシャワーです。仙台に戻ってからは、朝にお風呂を使っていますが、ほとんどはシャワーだけです。湯船につかるとちょっとだるくなってしまうので。でも、今日は何を思ったのか、お湯を張り、ゆっくりと浸かってみました。

入ってすぐに、朝だというのに、おじさんらしくフゥーと息を吐いてしまいます。さて今日は何をしようかといろいろと思い描いていたところに、揺れを感じました。始めは風呂場で眩暈は勘弁してよと思っていたのですが、どうやら身体には異変は無いようで、少しして地震だと気づきました。

どうしようもないよなと考えながらの地震はとても長く感じられました。収まった後も何か揺れているような気分で、そそくさとシャワーを浴びお風呂場から出たわけですが、polkaは一人掛けソファーで何事も無かったように寛いでいます。本当に地震だったのかなと疑問に思ったのですが、速報も既に終わっていたようで、テレビでは週末特有のにぎやかな番組が流れているだけでした。

しばらくして、ギャラリーへと降り、先ずはPCに電源を入れました。普段より時間の流れが遅く感じられます。いつもとは違った朝の始まりです。

ネットの地震情報には、やはり地震があったことが載っていました。polkaはすっかり慣れてしまったのかなぁとぼんやりとその情報を見ていた時、それはちょっと怖いことだなと感じました。

いやいや、そうじゃないさ、そんな訳ないよと頭の中で声がします。

そうさ、そんなことないよと声に出してみたけれど、自分の声では無いような不思議な感覚です。

いつもとは少し違った朝。

でもそれはどこかに繋がっているのだろう・・・今は分からないけど。

昨日からの雨がすっかり上がり、朝の日差しが窓から差し込んできます。ギャラリーは窓も無く(本当はあるのですが、見えないようになっている)、半地下なので、時折表に出ては外気に触れるようにしています。そんな時の雨は、気分的に嫌なものですから、朝に日が差し込んでいるとホッとします。


気温も外と比較して2、3℃低いので、穏やかな天気の外から入ると、ひんやりとした感じがします。今は節電や作品保護の観点から、常にスポットを付けておらず、薄暗くなっていますし、大抵は奥の小部屋で作業をしたりしているので、入って来られるお客さんは一瞬営業しているのか迷うようです。

大丈夫です、いつも通り営業していますから、安心して入ってきて下さい。入口にはセンサーがあって、人の出入りがあると、小部屋にある機器に明かりが点滅します。なので、すぐさま飛び出していきますから。

停電から復旧した時に、思わず声を上げてしまった人もいるかと思いますが、明かりってとても人の気持ちを左右させます。舞台でも照明効果でその時の状況や感情を表現しますし、それにより感情移入もしやすくなったりしますからね。

ギャラリーは作品ひとつひとつをお見せすることが主になりますから、それとは若干違っていますが、それでも照明の仕方ひとつで見え方や受け取り方は変わってきます。うちの場合、部分単位で調光も可能ですが、スポットの数にも限りがあるので、演出効果まで出来るとは思っていません。それでも、少しでも良く見えたり、世界観が伝わるように照明を考えています。

展示はさまざまな要素が組み合った結果、作り上げられた作品です。

そこに明かりも重要な要素としてあるわけです。

実際に経験してみないと分からない部分かもしれません。

だから、いつも、写真を撮っている方には、展示してみましょうよ、世界が変わるからと話しているのです。自分が生み出した子供のような作品に光を当ててあげることが、自分自身にも光を当てることなのですから。



これは5月13日に投稿する予定だったものです。

2011年5月12日木曜日

次回写真展のDM

一昨日、次回写真展のDMを持ち、自転車で回っていた話を載せましたが、こちらがDMイメージです。




次回写真展のタイトルは、Northeast Photographers “relation” in Miyagi 。


本来は、4月中旬からの予定で、震災の一日前にDMを発注していました。出来上がってきたものを捨ててしまうのももったいないので、参加者の了承をもらって、ラベルで修正しています。

いつもはデザインは1種類なのですが、これは参加者3名それぞれのイメージを使用して、表書きが一緒で、イメージのみが異なる3タイプになっています。

Northeast Photographersは、現在も募集をしています。東北六県からプロ・アマ問わず、写真家が集い、ひとところの場所で、しかも公共の場やイベントとしてではなく、全く個人レベルで繋がりを持ち、自由に発表し合えないだろうかという考えで立てた企画です。今回は “relation” in Miyagiと付いているように宮城からの参加者になっていますが、小さな地域ごとでの活動を紹介することで、様々な繋がりや文化交換のようなものが、東北全体として出来たらいいなという思いつきでもあります。

さて、今回の震災により、主な公共施設が閉館状態でDMも若干余り気味です。もし、置いてもいいよと思われている方はご連絡下さい。

スケジュール、詳細はこちらご覧になって下さい。

Northeast Photographers “relation” in Miyagi

2011年5月29日(日)~6月26日(日)
13:00~19:00 / 月曜日 休み  
入場料 ¥300(期間中、何度でも入場出来るパスポート制)

2011年5月11日水曜日

先は長いのですから。

震災から2カ月が経ちました。本当に月日の流れは早いものですが、実際はまだ2カ月しか経っていないわけで、状況が飛躍的に改善されているとは言えません。あらゆるものが、年単位での復旧が想定されているのですから、当然の話です。


そんな中、今月でギャラリーを開設してから、丸2年を迎えます。ほとんど試行錯誤の毎日でしたが、様々な出会いや応援もいただきながら、何とかやっているような感じです。震災後、誰しもが現状を顧みることとなり、自分自身の有り様を問われたのではないかと思いますが、僕もそうでした。

電気が復旧し、その日からギャラリーを開けました。もちろんお客さんが来られることなどこれっぽっちも考えていませんでした。ひとりギャラリーにいる日々がしばらく続くことを覚悟しながら、日々刻々と変わっていく状況を見つめていました。

そうして、自分自身何をやっているのかと思ってしまうことは何度もありました。来られないお客さんを待っていてもしょうがないんじゃないのともう一人の自分が言ってきます。でも、結局のところ、ギャラリーを開けることしか僕には出来ないし、その他に何か出来ることを鬱々と考えることも出来ませんでした。

当初の予定は狂いを生じ、しばらくは何も出来ないかなとも考えていたのですが、今のところ延期はしているもののスケジュールは立てられています。ホント、皆さんに感謝です。元々来客数は少ないですから、以前来ていただいたお客さんの顔はほとんど覚えがあります。久しぶりに来られたお客さんの顔を見られるとそれだけで嬉しくなってしまいます。

気分転換のつもりでいらして下さい。

先は長いのですから。

2011年5月10日火曜日

個人的に少々ショックを受けた日

昨日は久々に休みでしたので、普段お世話になっている画材屋さんや3日から開館したメディアテークに行ったりと、暖かさに任せて自転車を走らせました。次回写真展のDM配布を行うことが主だったのですが、震災以来顔を出せずにいたので、様子伺いのような感じです。

いつもDMを置かせてもらっているの家電量販店のラボコーナーは、以前は他のDMも何点かあり、順番待ち状態になってしまうこともあったのですが、昨日はまるで無くカメラメーカーのチラシや冊子が並んでいたので、受付していなのですかと聞いてみるといえ大丈夫ですと受け取ってくれました。

画材屋さんは、震災で落ちた商品もほとんど無く、いつもと変わらぬ様子ではありましたが、やはりお客さんは来られなくなったと話していました。その後、メディアテークに寄ったのですが、図書館が休館でしたので、人影もまばらでした。まだ、図書館だけしか開いていないので仕方ないよなと思いながら、入口を抜けると、右手にあるテナントが閉店していて、その空間に震災の概要や写真パネルが並んでいました。そのテナントにもDMを置かせてもらっていたので、ちょっとショックでしたね。

まだまだ日常には程遠い印象を受けながら、途中公園に寄りぼんやりと休んでみたりして、ギャラリーへ戻ってきました。その後は、プレスリリースの草案を考えたり、DMのデザインをしてみたりとしていたわけですが、夕方6時近くになり、今朝がたpolkaの薬を頼んでいたことを急に思い出しました。一瞬、本当に頼んだんだっけと思ってしまうほど、すっかり頭から抜けていました。幸いまだ病院は開いていたので、すぐに取りに行ったのですが、頼んだことすら忘れかけていることにややショックを受けました。何か遥か遠い昔の事のように思えたのです。

そんなわけで、昨日の休みは個人的少々にショックを受けた日になりました。

いやはやなんとも、そんな脱力感にも似た感覚を味わったわけです。

さて、今朝はとても良い天気です。
気を取り直して、先ずは自分が出来ることをしていこう。

と思っていたら、Bloggerの調子が悪い。
何とか元のエディタに戻して、今投稿出来た次第です。

2011年5月9日月曜日

13年目の春

今日はpolkaの近況報告を。


震災以来、余震もたびたび起こっていることもあり、その度に身を固くして周りをキョロキョロと眺めていたり、訳もなく(訳はあるのかもしれませんが)部屋をウロウロと歩き回ったりしていたのですが、最近はだいぶ慣れてしまったのかそれほど頻繁に動き回ることはなくなり、すっかり元通りのような感じです。

ただ、朝方僕の身体の上で寝ているでもなく、何となく寛いでいる状況が多くなっています。以前は水やエサを要求しに、耳元で鳴いたり、身体に乗ってきたりしていたのですが、特にそんな素振りもなくただじっと乗っかっています。僕は寝ているわけで、直後は気づかずにいるのですけど、次第にその重さを感じ、自然に眼を覚ましてしまいます。

まぁ、僕としては乗られるぐらいなら何ともないさと思っていますし、眼を覚まし身体を動かすと、polkaは飛び降り、それからは特に要求もしてこないので、単純に暖かさを求めてそうするのかもしれません。その後、僕はまたウトウトとして、眠ってしまうのですが、また乗ってくるかといえばそうでもなく、全くもって気まぐれです。

polkaを見ていると、彼は今あるこの生活や現実が、将来においても変わることがないものだと思っているようです。自分が死に向かっていく感覚もないのかもしれません。もちろん今は僕だって常にそんなことを考えているわけではありませんから、同じだと言われればそうだねと答えるしかありません。

それでも自分も含め、今ある環境や状況を自然なままに受け入れている(言い過ぎか?)ように見えるのは、たぶんにそこに鈍感さがあるように思えます。あれこれと思い悩み、ああしようこうしようと考えた挙句、結局は何も出来なかったり、その前に事情を敏感に察知して(したつもりで)止めてしまったり、そんなところはまるで見られません。

聞いても答えてはくれないから、僕が勝手にそう思っているだけで、実はものすごい葛藤や感情を持ちつつ、日々を生きているのかもしれません。言葉が通じたとしたら、そんなにお前ほど鈍感じゃないさと噛みつかれるかもしれません。

いずれにせよ、ほぼ変わらぬ日常がpolkaの周りにはあります。

そう思うと、やや鈍感に見られるぐらいがちょうど良いのかもしれません。

そして、いつもと変わらぬ13年目の春を迎えたのでしょう。

2011年5月8日日曜日

GW最終日

GWも今日が最終日です。東北全般に渡って、今年は例年とは違う過ごし方をされているのではないかと思います。僕はずっとギャラリーを開いていましたので普段通りでいましたが、道路を行きかう車の数が非常に少ないのがやや気にかかりました。


地域はどこでもそうなのでしょうが、多くの方が車で移動します。首都圏のように網の目のような路線もなく、バスにしたってひっきりなしに走っているわけではないので、目的地までは車、そして、そこの場所で全てが完結するようなレジャーが好まれるのかもしれません。中心部に向かう車は少なく、郊外へ行かれた方が多く、したがって車の量が少なくなるのでしょう。

明日以降は会社も始まり、朝の渋滞も見られるようになりますけど、連休最後ぐらいはゆったりと散歩でもしながら、普段は気づかず通り過ぎてしまっている身近なものに目を向けることも良いのではと思います。

いつもとはほんの少しだけ視線を変えて見るのも必要で、予定調和に捉われないことも日常を取り戻す手段のひとつです。そうすれば、また喜びや楽しみは拡がりますから。

それでは、今日もまた写真展会場の一部をご紹介。


この場でも、いつもとは違ったもうひとつの日常が見られます。

あっ、写真展は今日が最終日ではないですからね。

2011年5月7日土曜日

人の心ってやつは・・・。

今日も写真展会場の一部をご紹介。


少しづつ展示状況をアップしていますけど、これ実物を是非見て欲しいからです。来られるお客さんのほとんどは、ギャラリーにおいてある8×10ピンホールカメラからこれらの作品を撮影されたものとはにわかには信じられないようです。


レンズもない、ただの箱に穴が空いているだけですから、普段大手量販店で見かけるカメラと比較しても、なぜ?と思ってしまうのは当たり前の話です。でも、これが写真の原点なんですね。

世の中、光があるから眼に見えたり、色を認識出来るわけで、それらの光を小さな穴からあつめ、フィルムや印画紙に焼き付けただけで、これほどまでに鮮明かつ穏やかな写真になります。意図していない分ぼんやりとしている部分もありますが、これらも写真そのものの偶然性を表わして、味わい深い感じがします。

じゃあ、カメラの中やフィルムを装填する時はと言えば、真っ暗でなければなりません。良く言われる光と闇の織りなす結果として写真が存在するわけで、陽の光だけがあれば良いものではなく、実はとても人間くさい道具や手段でもあるわけです。

だから、ダイレクトに撮影者や被写体の心象を投影しているとも言えます。

そう考えると、それらによって表現する行為は、思っている程、難しいものではないのかもしれません。

でも、人の心ってやつはなかなか見えないものだからなぁ・・・。

2011年5月6日金曜日

展示状況そしてお願い

今日も写真展会場の一部を紹介します。昨日は3D写真の展示状況でしたので、奥側の部屋にあるピンホール写真の展示状況を載せます。



全紙、全倍、B1とほぼ大判写真が展示されていますから、結構迫力があります。レンズもないただの箱のようなもので、撮影されたとは思えないほどの鮮明さが感じられます。フィルムは8×10、A4をやや小さくしたサイズですから、これだけ写っているのですね。自作のピンホールカメラも参考展示していますので、カメラに対しての印象が変わるかもしれません。

さて、今日はもうひとつお願いです。

現在8月予定のSha-gaku vol.3の参加者を募集しています。Sha-gakuも今回で3回目となり、過去の2回においては、それぞれの個性と構成が表れ、お客さんにも大変好評でした。いずれはここで参加をしてみたいと話されていた方もいらっしゃいましたが、震災影響もあり、まだ参加者が集まらない状況です。

写真は改めて記録としての重要さと人の心にも繋がる貴重なものとして再認識されました。だからこそ、その写真を持って、表現し、発表することに大きな意義があると思っています。また、こういう機会は、テーマやコンセプトの決まったコンテストとは違い、自分自身を主役として、誰に左右されるでもなく自由に表現出来るものです。

人は生活をする時にほとんどは理性にしたがうものです。逆に感性はその場の思いつきや感情に駆られたもので、それを信じ、すぐ行動として表わすことは少ないものです。それでも、本当に自分が感じ、したいと思うことって感情の中に大抵含まれているもので、これをしてしまったら忙しくなるぞとか何の得にもならないかもといった理性とも言いわけとも(自分に対しての)いえるものに敵うはずがないと思っています。

今回の震災で支援をしたり、義援金を送ったりする方のほとんどは、そうしたいという根源的な感性から、そうしているのだと思えるし、のちのち自分に何かが返ってくるものだからしてるんだと思っている人は少ないでしょう。

写真を通して、自分自身を表現し、周りの人々にもその思いを伝えたいと感じた人は、是非申込み下さい。

そうでなけりゃ、カメラなんてただの便利な道具のひとつになってしまうと、僕は思うのです。


2011年5月5日木曜日

今日で1週間

だいぶ春めいたというか気温も上がってきたこともあり、朝の目覚めが遅くなってきた感じがします。疲労が溜まっているわけではないのですが、少しずつ起きる時間が遅くなってきています。ゆっくりと寝ていられることは悪いことではないので、このまま自然に任せておこうと思っています。


さてと、今年のGWは震災の影響もあり、キーワードが「安・近・短」らしいです。たぶん2008年の米金融危機以降の傾向だと記憶していますが、さらに強くなっているように思いますね。でも、大きな流れの中では、それも良いのだと思えます。身近にある普段それほど気にもかけていない場所やものにその良さを見つけたり、心豊かにしてくれることってその規模であったり、かかったお金に依らないものですから。

黒田克夫写真展も今日で1週間になります。まだ始まったばかりですけど、是非とも見に来ていただきたいと思っています。大げさに言えば、ここで今見られるものは、日本中のどこでもお目にかかれないものですし、写真そのものの考えを崩しかねないものですからね。


明日仕事に行かれる方は、今日にでも。

そうでない方は、時間のある時に、のんびりと見に来て下さい。

2011年5月4日水曜日

動き出しましょう、自分の為に。

先週からギャラリーのあるビルは、外壁の亀裂や破損の修復工事が始まっています。工期予定は既に過ぎているのですが、なかなか予定通りいかないようで、今も足場は組み上げられたままで、いつまでかかるのか分かりません。近くにあるマンションにはいまだ落下防止のシートがかけられ、そのままの状態が続いているので、何かしている分、まだましなのかもしれません。


道路からは車がめっきり減り、穏やかな休日の雰囲気が、しばらく続いているようには見えます。僕は休みではないのでギャラリーにいつものようにいるわけで、あまり変わりない日々を送っています。そして、いつもとは少し気分を変えて、写真でも見に行こうかと思って来られるお客さんを待っているわけです。

でも、やはりいつもとは違うGWなのでしょうね。休みだからと言って浮かれてばかりもいられない、今もまだまだ苦しんでいる人たちがいるのですから、自分ひとりが楽しんでいていいのかと感じてしまうことは充分理解出来ます。そんな中、お客さんが減ってしまっていることは仕方ないかなとも思います。

そうは言っても、このままということにはならないし、今のままで良いと思っている人も少ないでしょうから、個人的にある程度時間が必要なんだろうと思います。でも時間は絶えず進んでいて止まらないし、ただ何か良くなることを待っていたって、ホントにただ流れていくだけです。

動き出しましょう、自分の為に。

そのことが、やがて周りの人にも届くのですから。

2011年5月3日火曜日

ドラマは自分で作るものだから

ようやく風が収まり、柔らかな日差しが見え隠れしています。文字通りの五月晴れまではいかないのかもしれませんが、それでも気持ちは良いものです。暦通りでも今日から3連休、少しは心落ちつける時間が持てる気がします。


県美術館では、佐藤忠良追悼展が始まり、市博物館でもポンペイ展が再開され、徐々に文化施設でも動きが見られてきました。公的な施設はその地域の文化振興の担い手であるわけで、当然ながら行政そのものですから、継続し、恒久的に人々に生活の潤いや豊かさを与えなければなりません。

一方、商業ギャラリーといったビジネスの場でもあるものについては、独自性や質的満足、そして作る側、見る側のかけ橋となり、日常的に身近なものとしてアートが存在することに気づいてもらえるようにしなければなりません。スーパーやコンビニにでも行くように誰もがふらっと入れ、お気に入りの作家の作品やこれまでに眼にしたこともない表現に接し、それらを日常の空間において楽しめる、愛せることが出来たなら、どれほど心豊かになれるだろうにと夢のようなことを想像しているのです。

人は死ぬまで自分の夢を持ち続けなければならないと良く言われます。想像はたやすく、現実は厳しいことも良く知っています。そして、夢見たところで、何も変わらないよとも言われます。そう、想像だけでは何も変わらないことぐらい誰でも分かること、現実を見つめ、自分を見つめ、ためらいや諦めが頭をもたげることはしょっちゅうあることです。

想像から創造へ変える行為、そこには大きなエネルギーと忍耐が伴っているのですが、それをも凌駕するものが夢なんだと思います。これは何もアートのことだけに限らず、この世に生を受けたものの自身への欲求に近い感情なのかもしれません。

だいぶ大げさな話になってしまいましたが、結局それらは各々の考え方に依るものです。

今日も普段と変わらぬ、日常という幕が開きます。

夢見たり、想像することは日常の営みのひとつでもあります。

ドラマは自分で作るものだから・・・。

2011年5月2日月曜日

普段とは違った夜

フィギュア世界選手権女子で優勝した安藤美姫選手がエキシビションのアンコールで見せた「レクイエム」の演技にすっかり感動し、思わず涙した頃、窓を叩く風の音が次第に大きさを増してきました。築30年以上のマンションで、震災にも耐えた建物ですが、ガラス窓の建付けの悪さは否めず、もはや壊れてしまうのではないかと思うほど、ガタガタと大きな音を立てて震えています。


感動といくらかの興奮の中、強い風のいたずらもあって、なかなか寝付けません。polkaもそれほど驚いている様子ではないのですが、いつもより部屋をウロウロと歩きまわる回数が増え、そのたびに水を要求してきます。鳴き声に無視を決め込んでいると、耳元で鳴くし、体の上に乗ったりと強硬手段を取ってくるので、仕方なく起きて準備をしてしまいます。この辺りは全くもって主従関係が逆になっています。

そんなこともあって、結局夜中3時半頃まで寝られずに、いつしかテレビでは大リーグ中継が始まってしまいました。ぼんやりとイチローの姿を見ながら、ようやく所定の居場所でpolkaが丸まってくれたなと思った途端に知らず知らずに眠りに入ることが出来ました。

目覚めはやはり風の音とpolkaの鳴き声でした。ちょっと鳴く回数も多いので、これはまた余震でもあるのかと感じたりもしたのですが、どうやらpolkaにはそんな予知能力は無いようです。

何やら普段とは違った夜を過ごしても、また今日は始まります。普段は月曜日が休みで、あれをしよう、あそこに行かなくちゃとか思うのですが、今日はギャラリーを開けますから、普段と変わらぬ一日になるのでしょう。でも、風は今も強く、飛ばされてしまいそうな勢いです。自然の中では、僕たちがいかに小さく弱い存在であることを思い知らされます。

今朝またニュースで流れた安藤選手のその演技を見ていると、こんな小さな存在でも大きな意思や意義を持って生きている強さを感じさせてくれます。
そして、皆そうなれるのだよと語りかけているようにも思えます。

ありがとう、そう素直に言える今日に感謝です。

2011年5月1日日曜日

今だから、今こそ

楽天、ベガルタが揃って地元開幕戦で勝利を飾り、昨夜フィギュア世界選手権女子で安藤美姫さんが逆転優勝をし、気持ちが明るくなり、笑顔になった人がたくさんいたと思います。これらは相手があり、誰が見ても結果が分かるものですから、見る側にストレートに気持ちや思いが入ってきます。しかも言葉という手段を取らずに行っているものです。


写真も一緒です。違っている点を強いて挙げれば、相手は自分自身、結果は全て見る側に委ねられ、評価たるものがやや曖昧に感じられるところです。制作に到る過程が作品に現れる部分もありますが、見る側にとってはあまり関係ないことで、むしろ共感や感情により評価が左右される傾向にあります。その辺に、自分自身と見る側とにギャップを感じ、思い悩む写真家が多くいるのだと思います。

でもね、発表や行動を起こさなければ、自分の思いや考えを伝えることは出来ません。これって皆が知っていることです。じゃあ、そこに到らないのは、自分に自信がないからかと言えば、それだけではありません。どこかで周りを意識し、本来見つめるべき相手が自分であることに気づいていないからだと思うのです。

使っているカメラだって、プリントの方法だって、これじゃなくちゃなんてことは、僕にとっては関係ないことで、それぞれがそれぞれの考えで一番良い手段を選べばよいだけの話です。理由や訳なんてものを考えて、作品なんて作れないし、ましてやそれをかざして伝えようとしたって伝わるわけもありません。

大事なのは、制作に対する姿勢や思い、その過程で起きる葛藤やエゴをまともに受けられるだけの勇気なのかもしれません。そして、その時々で自分自身を見つめ直す作業を繰り返すことが、伝えられるものを生み出す唯一の方法なのかなと思ったりします。

偶然にもカメラと出会い、今もまだそれを捨てずに撮影をしている人たちは、今だから、今こそ発表すべき時期だと思うのです。

場所はここにあります。

自分自身の楽しさや喜び、思いや考えで、周りの人々に元気や勇気を分けられたなら、大きさや影響力なんて関係なく、それってスゴイことなんだと思います。