2010年11月30日火曜日

「Good job!」

「Good job!」


外国の方がよく言われる常套句のひとつです。直訳すると、「いい仕事をしたね」となるのでしょうが、先のフィギュアスケートのグランプリシリーズ第6戦、フランス杯で優勝を決めた小塚選手に、2位になったフランスの選手が英語でそう声をかけている姿が映し出されていました。日本でも、よくテレビに出る古美術商の言葉ではありませんが、数年前からそんな言われ方を聞くようになりましたよね。

さて、ここで言う「仕事」とは、どんな意味を持つのかということになります。小塚選手はもちろんプロではありませんし、フィギュアスケートを仕事として捉えているかどうかも本人にしか分かりません。ですので、この場合、「良かったね」とか「素晴らしい」といったねぎらいであったり、称賛の言葉としての意味を持つのだと思います。

一方、実用としての価値を持つ工芸や陶芸といったものや大量消費財として世に出ている商品について当てはめてみると、文字通りプロの仕事としての結果を称しているように思えます。それは、主にそこに表れている技巧や使用した上での感想のようなものに近いのかもしれません。

実用性のないアート作品(中には実用性を備えているものもありますが)についてはどうなのかですね。もちろんアート作品も商品としての側面を持っています。それが無いとビジネスとして成立しないですから。それでも、それを鑑賞したり、購入する人たちからはあまり「いい仕事をしているね」という言葉が出てくることは少ないものです。そんな言葉が出たとしても、意味としては、小塚選手のケースに近いのだと思います。

作品であれ商品であれ、そのものを販売するには、有形無形の価値を持っている必要があります。それがいわゆる「仕事」の結果です。でも、その価値は、結果として生み出されるものだけではなく、作り上げた人(表にあらわれなくても)自身にそれを見出してもいいのです。モノを作る姿勢であったり、生き方そのものであったり、テーマ性や世界観に価値を感じることは何も不思議なことではありません。

人が生きていくことは、ある意味「仕事」であるように感じることがあります。ですから、個人的には、「Good job!」と言えたり、言われたなら、損得考えずにそれで良いとさえ思えます。大抵の人も、そうなんじゃないかな。(それが意識的であるか無意識の内であるかは別にして)

さて、そんなことを考えながら、今日も「仕事」を始めるとします。

2010年11月29日月曜日

朝の情景

通勤する人に紛れて、朝一番から自転車で街中まで走らせた帰りです。それにしても、行きかう人たちの顔は一様に寒さでこわばり、みな足早にビルへと逃れているようで、案外自転車で通勤している人は少ないですね。この時期ですから、実際、颯爽と自転車を走らせているほうが変わっているのだろうし、全身に当たる風の冷たさは、考えただけでも身を震わせてしまうものですから、この情景が普通なのだと思います。


さて、いよいよ師走、今年最後の月になろうとしています。今年も全てをギャラリー企画展として、12月開催予定の江口敬写真展を含めて、計7回開催したことになります。一回の会期が長いので、たったそれだけと思うかもしれませんが、僕としてはブランク無く続いたよなといった思いです。これもひとえに皆さんの協力があってのことだと感謝しています。

僕は写真家ではありませんから、作品制作という内省的な活動をしていません。それでもいつもこれでいいのか、違ってはいないかと自問しながら、企画等の検討を行っています。正直、時にすごく孤独な作業のように思えます。パソコンに向かう自分の姿を、俯瞰して見ているもう一人の自分を感じることもあります。

だから、今日のように朝から人々が仕事へと向かうというごく当たり前の情景が、とても新鮮に映ったり、その中に自分がいることを不思議に感じたりするのです。2年前まではそれが自然で、しかも何も疑わずにしてきたことであってもそうなのです。まぁ、生活の為が第一になってしまうとそうなってしまうものなのだと思いますが、ストレートに仕事イコール生活の糧と考えていなかったところもあったわけで、その辺りの変化は自分でもよく分かりません。

ただ唯一言えることは、今僕が行う行動の全ては自分自身の責任であり、良いにせよ悪いにせよ自分に帰ってくるものだということです。組織としての盾もなく、自分を晒しながら生きている人は、世の中にはたくさんいます。おそらく、そんな人たちはみな同じような感覚を持っているのではないかと思います。

大それたことは出来ないし、それ相応のことをしていくこともままならない毎日ですが、足跡ぐらいは残していきたいと思っています。

たとえ、それが風で飛ばされる砂上のものであっても、

誰かの記憶の片隅に残るなら・・・。

2010年11月28日日曜日

ある一曲

昨夜部屋に戻り、テレビのスイッチを入れた時、聞き覚えのある歌声が聞こえてきました。山下達郎さんでした。この季節になると決まって聞こえてくる例のクリスマスソングではありません。今年、新曲として出した映画の主題歌であることはすぐに分かりました。


番組は「めちゃイケ」で、そのエンディングに使われていました。その映画で主役を演じた岡村隆史さんが体調不良で休養後、番組へ復帰していたのですね。「希望という名の光」とてもそれらしく、良い歌だなと改めてそう感じました。

僕が若かったころ、一時期、山下達郎さんばかり聞いていたような気がします。そして、シュガー・ベイブを遅れて知り、その結果大貫妙子さんも聞くようになっていました。「DOWN TOWN」なんかは良く聞いていました。そう言えばこれも「ひょうきん族」に使われていたので、お笑いには縁があるのかなぁ。

そんなことを考えながら、ある一曲を思い出そうとしていました。

なかなか思い出せないその曲は、「希望という名の光」を聞いていた時、ふと僕の記憶の底から浮かび上がってきたもので、その時点ではメロディーと歌詞はおぼろげでした。あれじゃない、これじゃないと次々上がる候補の中で、ようやく思い出した曲がこれです。

「蒼氓(そうぼう)」

意味は無名の民だったように記憶しています。

どこかで「希望という名の光」との繋がりを感じますし、僕のとても好きな一曲です。

また、今だから聞いて欲しいと思える曲でもあります。

http://www.youtube.com/watch?v=BQjZE66yhks

昨日、今日と音楽の話になってしまいました。

言葉とメロディー、あるいはメロディーだけであっても、特別な道具や手段も用いず、何も無いところから意味あるものを生み出し、表現し、人を感動させてくれるものってあまりありませんからね。



2010年11月27日土曜日

「時をこえ」


先ずはこちらを読んでみて下さい。


先日今年のNHK紅白歌合戦メンバーが発表されました。その中で初出場することとなった、沖縄出身のHYというバンドの「時をこえ」の歌詞です。

正直なところ、この発表があるまで、僕はHYを知りませんでした。(もっと他にも知らない人はいるのですが)HYってなんぞやと思い、ちょっと調べて、この曲を見つけました。

過去にそこで起きたことを伝え続けること、それがたとえ忌わしく哀しい出来事であったとしても、起きてしまったことを何もなかったことにすることは出来ないというすごく当たり前のことを再認識させられました。

メンバーは全員80年前半の生まれです。実体験のない話に説得力が無いかと言えば、決してそうではありません。もちろん体験に基づいた話は、それだけで圧倒的ではありますが、それを伝えることは出来るものです。

伝えたいものがあることやそれを伝えようとする姿勢は、年齢と共に目ざめ、育っていくものではありません。キャリアがそうさせるものかと言えば、全くそんなこともありません。

必要なものを強いて挙げれば、どれだけその事実や思いに向かい合い、自分自身と語りあっているかなんだと思います。

2010年11月26日金曜日

テレビ小説「てっぱん」

polkaを膝に乗せながら、NHK朝のテレビ小説「てっぱん」を見ることがすっかり毎朝の日課になっています。その前の「ゲゲゲの女房」も楽しく見ていましたし、世間では大評判となっていましたから、次のものは大変だなとは思っていました。どうやら順調な滑り出しのようで、実は今日も朝から涙してしまいました。


時代設定は現在なのですが、舞台が大阪で、下町のお好み焼き屋であるので、何か「昭和の匂い」のようなものが感じられます。現在よくあるモダンなお好み焼き屋ではなく、僕が幼い頃に母の実家の近くにあった店のような感じなのも、そう思わせているところなのかもしれません。

ヒロイン・瀧本美織さんの屈託のない笑顔や素直な感情表現を見るたびに、目を細めている(おじさんですから)のですが、なによりおばあちゃん役の富司純子さんがとても良いですね。富司さんは現在64歳ですから、まだおばあちゃんという感じでもないのですが、世間的にはそうであって不思議はないわけで、年相応の役を演じていることになります。

かつては芸名藤純子として「緋牡丹のお竜」で一世を風靡し、今はもうほとんど見られない任侠映画の大スターでした。大スターという言い方も昭和的ではありますが、当時でもそういう風に言われる方はわずかだったと思います。

その後結婚で一時引退、テレビでの司会で復活後、80年初めに芸名を改めて、女優としての仕事を再び始めたことは、多くの人が知っていると思います。(今の若い方は知らないだろうな)娘さんが、あの寺島しのぶさんです。何か説明・紹介のようになっていますけど、まぁ今では信じられない程、遥かに遠い存在の人だったわけです。

そんな富司さんが演ずるのが、出た当初はかなりいけすかない大阪のおばあちゃん役でした。それでも、頑固で口の悪いおばあちゃんでありながらも、その立ち居振る舞いには、ただの大阪のおばあちゃんには見られないような趣が出てしまうものです。(決して悪気はありません、あくまで一般的なイメージとしてです)

何より姿勢が良いですね。背筋をぴんと伸ばして、真正面から見据えられて話されてしまうと、もう内容は分からなくても、思わずうなずいてしまうほどの気品や威厳のようなものを感じてしまいます。これは、文字通りの姿勢の良さだけではないのですよ。生い立ちや環境もあるのでしょうが、長年培ってきた生き方そのものへの姿勢の良さなのです。

僕は7年程前に、プライベートの富司さんを見かけたことがあります。演目は忘れてしまいましたけど、寺島しのぶさんが出演する舞台を見に来た事があり、僕も偶然その場にいました。確か、渋谷のシアターコクーンだったと思います。開演時間間際になって、係に案内されながら、会場へ入って来たのですが、薄紫の着物姿の富司さんは、それだけで会場内の全ての眼がそちらを向いたといって良いほど、一瞬で多くの人を魅了出来る人って確かにいるのだと思わせてくれました。

開演間際に入ったことには、おそらくはあまり前に入ると場内が混乱してしまう可能性がるとの配慮だったと思われるのですが、本人の意向だったような気もします。そう思わせてしまうってこと(勝手な推量かもしれませんが)も、実はスゴイところです。

少しだけもいいから、姿勢を正し、背筋を伸ばそう。そして前を見据えていこう。

毎朝、僕をそんな気にさせてくれるのです。

2010年11月25日木曜日

感情は主観的なものだから

すっきりと晴れ渡っている朝は、すがすがしさと同時に凛とした趣があります。今日もそんな冷気が肌を刺し、日差しが眩しい朝でした。今の季節はまだ冬ではなく、晩秋にあたるようですが、その言葉自体に幾分もの哀しさを感じます。


四季のある日本では、それぞれの季節で自然は姿を変え、僕たちの前に現れてくれます。それは、僕たちが望む、望まないに関わらず、気が付けばいつものようにそこにあるものです。気付けよと声高に言ってもいませんし、押し付けがましいところもありません。

ただ、そこに或るだけです。そんな移り変わりを眼で追い、肌で感じ、あるいは香りとして得ることで、勝手に形容しているだけなのです。

だから、秋はちょっともの哀しいと言われても、秋という季節を形づけるもの達は、決してそんなつもりでいるわけではなく、むしろそんなことはないよと言いたいのかもしれません。その辺りが、人が感情の生き物だと言われる所以なんだろうと思うわけです。

僕は、感情というものは常に主観的であると考えています。主観的であることは、例えばそこにある花を見た時に、誰ひとりとして同じ感情を抱かないことでもあります。「美しい」の一言の中には、いくつもの意味があるように、そこから生まれる感情も無限であって良いわけです。

表現する者は、自分自身の思いや疑問といったものを伝えようとして、具体的に形づくるもので、時に意に沿わない理解や感情を持たれることがあります。(表現者としての立場から見て)それがよりパーソナルな部分から発生している場合は、特にその確率は高いもののように思います。

もちろんそこから普遍的なものへ繋がったり、拡がりがあるのなら、意図した部分を感じてもらえる率は高くなります。そこには、無理や押しつけがないことが重要ではあるのですが、案外そういったものは、作りだそうとする以前に身近にあるものなのです。

自然もそのひとつです。

そんな日常にある美しさやいとおしさをすくい上げ、磨きをかけて目の前に提示するだけでも、表現者としての意義はあるわけです。

しかも、それはごく一部の人に対してであっても構わないとさえ思っています。

生まれる感情が主観的であるのなら、全ての人に同じ感情を抱かせることなんて不可能なことなのですから。

2010年11月24日水曜日

「隣の芝生は青く見える」

「隣の芝生は青く見える」


誰もが知っていることわざ、慣用句じゃないかと思います。簡単に言うと、他人の物が良く見える例えですね。僕を始め、他人(身内であっても)と比較し、その有り様や持っているものなんかを羨んだりすることは誰しもが抱く感情をひとつです。まぁ、その中身には、それほど違うものではないとの意味も隠されているのでしょうが、素直にそう感じてしまうことは往々にしてあるものです。

その根底として、あまり認めたくない不公平感があるわけですが、そういう状態になった時に、どういう行動を取るかが大きな意味を持つように思います。自分は自分だとして考えたり、いつかはそうなればとの思いから前向きに動いたり、仕方ないよなと現状に甘んじることを良しと思ったり、人それぞれ色々な考えを持ちます。

では、様々な表現手段を持って、形あるものとして創造し、何かを伝えたいと思っている人も同じように感じるのかと言うことになります。本来、オリジナリティーや自分の世界観をメッセージとして表現しているわけですから、他人のそれと比較しても仕方ないと思われますが、実際はそうではありません。

同じ人間である以上、感じ方の大小や影響力の違いはありますが、皆そんな気持ちを抱くのだと思うのです。どうしてこの人の作品からは伝わってくるものが明確に有るのに自分のものは全く伝わらないとか、この色や表現はどうやったら出来るのだろうとか、感心したり、嘆いたりしているわけです。そんな疑問や問題を自分自身に問いかけながら、現状から飛び出そうと模索している姿は、修行僧のそれを思い起こさせます。

それでも、そうした事をしているまたは出来る環境にいることは、まだましです。望んでいてもそれすら許されないもしくはその環境が目の前にあってもそこに飛び込めない人々は、僕の眼にはもっと哀しく映ります。

以前、人が環境を作らなきゃと書きましたが、その思いは「自分ちの芝生を青く見せる」ことに近いのかもしれません。しかし、これは、決して他人との比較や競争ではありません。先ずは自分が行動として表わし、可能性を示そうよということを意味しています。

きっとそれが、求められる大人としての役割のような気がするのです。

2010年11月23日火曜日

維新派 「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」


維新派による「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」が、彩の国さいたま芸術劇場で間もなく開幕されます。これは、<彼>と旅をする20世紀三部作と題され、第一部の南米篇「nostalgia」、第二部の東欧篇「呼吸機械」に続く最終作になります。


2010年7月下旬に開かれた瀬戸内国際芸術祭2010の中で、瀬戸内海・犬島で初演され、その壮大な野外ステージで繰り広げられた舞台を、劇場空間に持ち込み、新たな展開を見せてくれるのではないかと思います。

維新派の演劇・パフォーマンスを一言で語るのは非常に困難です。昨日、DVDで「nostalgia」を観たのですが、やはり、観なければ伝わらないなと改めてそう思いました。彼らの舞台では、セリフらしいものはありません。その代わりに、単語化された言葉を全編通して流れる変調子のリズムに合わせて発語されます。見ている人はたとえそれが日本語であっても、一瞬、何を言っているのか分からない時もあります。

そして、舞台上にはいつも何十人単位の役者が、同時多発的に物語に沿った踊りを繰り返します。踊り自体も独特なもので、ある時は組体操のそれを思わせ、またある時は能楽を想起させる動きにも見えます。

何より、特徴的なものは、そのほとんどを野外で、しかも設営から撤収に到るまで、全てメンバーで行っている点です。そのスケール感は見るものを圧倒し、背景にある自然をも舞台の一部としているので、その場で、その時間でしか感じられないものを表現しようとしているのです。

今回の埼玉公演は、野外でのステージをどんな形に変化させてくれるのかが楽しみのひとつです。(残念ながら、観には行けないのですが)犬島公演の際の、プロモーション映像がこちらです。

http://www.youtube.com/watch?v=xur5MaS65y4


興味がある方は、ちょっと交通の不便な彩の国さいたま芸術劇場へ足を運んでみてはいかがでしょう。宣伝のようになってしまいましたが、僕自身、維新派の舞台は、表現における演出性という点では、日本でも突出していると思っています。


観るたびに新しい刺激や発見を僕に与えてくれます。

2010年11月22日月曜日

休日の自転車行脚

さてっと、今日は外出しなければいけません。次回の江口敬写真展のDMをいつものように置いてもらう為です。DM自体は1週間ほど前に出来上がって来たのですが、今週は外出出来る時間がなかったこともあり、こちらで住所登録されていている方々と今週ギャラリーへ訪れていただいた方以外は目にしていないと思います。

今回は結構スタイリッシュに仕上がっています。それがこちらです。


現在ギャラリー内にのみ、プレDMとして他に2種類のデザインのものが用意されています。こちらのプレDMを会期中お持ちになれば、フォトブックを特別価格で購入になれます。もちろん、サイトでも特別価格で予約受付中です。お早めにお申し込み下さい。
http://kalos-gallery.com/shop/takashi_eguchi.html

プレDMはこちらになります。12/5までの限定配布です。




また、本日中に告知する予定ですが、会期中にギャラリー・トークを行います。江口氏は今回の作品全点をリコーデジタルカメラ GXRで撮影、制作をしています。これは、一般の方にも手に出来るカメラです。そこから作品として生み出されるに到る技術的な部分や表現している世界観なんかも聞けると思います。基本的に質疑応答スタイルで、気軽な感じで行えればいいなと考えています。

そんなわけで、これから、またまた休日の自転車行脚(大げさ!!)をします。

寒そうな顔をして、馬の尾っぽのように長くなった髪をキャップで押さえながら、自転車を走らせている姿を見かけたら、それが多分僕です。

2010年11月21日日曜日

アート性

ハービー・山口、ヨーガン・シャドバーグ写真展 Two in One in England も早いもので残り2週間となりました。本作品は1970年を境に撮影されたイギリスの人々や情景ですが、撮影された土地や環境、なにより写真家自身が見ている視線や距離感に違いがあります。その辺りは、おそらく、どなたでも気付かれるのではないかと思います。


同じ対象物を撮影したものであっても、同じものはひとつもありませんし、撮る人によりいかようにも変わってしまうのが、写真の面白いところでもあります。それが、写真家の個性や表現の多様性に繋がっていく結果として、作品性や作家性が生まれてくるのだと思います。

現在はデジタル化に伴い、その表現の幅は拡がったと考えています。ある種の人は、デジタルで制作された作品に対して、果たして本来の写真として足り得るものだろうかと疑問を持っていることは確かです。しかしながら、アート性という観点から考えると、個人的にはアナログとかデジタルといった方法、手段によるものではないと思っています。

そもそも日本では、芸術という概念が現れたのは明治以降だと言われているようですし、比較的新しい価値観であるわけで、今ではその範囲も拡散し、何が何だか分からないよねといったところが本音なのかもしれません。人は常に進化しながら(後退している部分も多くありますが)、自己のオリジナリティーを作り上げ、より良きものへ進んでいっていきたいと願っているはずです。

しかしながら、どれほど文明が発達しても、人の感情そのものは古来からあまり変わっていないようにも思えます。実際、喜怒哀楽は程度の差はあれ、どの時代でも共感可能なものとして理解出来ますからね。

だからこそ、現在の或る姿や形なりを自分なりに考え、表現していくしかないのかなとも思うわけです。その為には、過去の歴史を振り返る必要もあるだろうし、方法・手段の選択も大きな要素になってきます。重要なのは、それらは結果として生み出されるものの為の要素ではあるけれど、価値観そのものではないということです。

世の中には同じものがどれひとつ無いと言われていますが、そうでなければオリジナリティーであったり、やがてそこから生まれてくる価値といったものも感じられないのだと思います。

もっとも、それを見つけるまでが、とても辛く苦しい道のりではあるのですが・・・。

2010年11月20日土曜日

色鮮やかなモミジ達

今年の紅葉は例年以上に色鮮やかできれいなようです。テレビから流れていた京都のモミジは、画面で見る限りでも真っ赤に染まっていました。


紅葉は秋口から光合成により蓄積された糖分が更に紫外線により赤く変化すると、どこかで読んだ覚えがあります。それだけで、赤く色づくのかと気になり、ちょっと調べてみたところ、離層という組織の発生が大きな影響を与えていることが分かりました。

紅葉の後、葉は落ちるわけですが、葉の根元できれいに落ちることに以前からとても不思議な感じはしていました。どうやらその切り離し面を離層といって、紅葉の前に植物自ら作るもののようです。離層は葉にある水分や糖を幹へ流れて行くことを妨げ、その結果として紅葉が起き、離層の出来により色づき方は変わると言います。

今年は季節による寒暖の差や11月の雨の影響で、色鮮やかな紅葉には好環境だったわけです。それにしても、紅葉って、落葉樹にとっては、葉が落ちる前の一大イベントのような気がするわけです。もちろん自発的にというか、もちろんモミジ自体はその考えを持って、離層を作り、今年も赤く色付こうと思っているわけではありません。その全ては生存のために行われているものです。

それでも、僕はそんな行程(行為?)に一種の潔さや尊さのようなものを感じてしまいます。植物は一年一年生まれ変わるわけで、その寿命はやはり一年しかないと言って良いと思います。毎年繰り返し行われることですが、何か最後のあで姿を見せる為に生きてきたような気もします。

自然は非常に身近で、ごくありふれた情景のように僕たちの前で立ち居振舞っています。しかしながら、そこに到るまでのメカニズムや構造はとても複雑であり、意味深いものであるのです。しかもその行いの全ては純粋に生きるという一点にあり、なおかつ僕たちの目には決して見えないものなのです。

だからこそ、人はみなその姿を美しいと感じるのかもしれません。

2010年11月19日金曜日

「トマトバジル」って。

今日もいつものようにビルの前にある自動販売機で缶コーヒーを買ったのですが、3台ある内のひとつにふと目が止まりました。毎朝飲むものは決まっているので、普段はそれを買うとすぐにギャラリーへ入る(外は寒いですし)のですが、何故か今日は隣の自動販売機に目がいってしまいました。


三段ある内の一番下が暖かい飲み物だったのですが、その中に3種類のスープがありました。おそらく2、3日前に入れ替えをしたと思われるその自動販売機は、常にスタンダードな飲み物しか売られることがなく、滅多に覗きにいくことはありませんでした。そんなタイプのものだったので、余計気付いたのかもしれません。何年か前から、自動販売機でもスープの類は販売されていますので、さして珍しいことではありませんが、今日僕が見たものはちょっと変わった部類に入るのではないかと思います。

それは、「トマトバジル」と商品名を付けられたものでした。缶全体が赤で塗りつぶされ、正面に白い皿に盛りつけられたイメージがあり、小さく「盛り付けイメージ」と記入があります。これまでも、ポタージュやコンソメ系は良く目にしていましたし、たまには僕も買ったりしていましたけど、トマト系のスープは僕自身初めて見るものです。

すでに知っている方は多くいらっしゃるとは思いますし、飲んだ人もいるのでしょう。味はほぼ想像出来ます。おそらく、トマトジュースの延長線上にないことだけは確かです。

それでもどんな時にそれを選び、飲もうと思うのだろうかと考えてしまいました。

今ではスープだけの専門店もありますし、お客さんもいらっしゃいますので、もう普段から日常的に楽しむものなのかもしれませんが、単品で午後の休憩時間に飲む姿をあまり想像出来ません。晩御飯のちょっとした御供にと、そのまま食卓におかれてもちょっと困った状態になるような気がします。やっぱり、少なくても皿に移すのでしょうね。

メーカーはいろいろな意見や考えで商品化までしたのでしょうし、それなりのマーケットを予定しているのですから、おそらくは、今日はトマトスープで一服をという人もいるのかもしれません。確かに僕も試しに飲んでみようかと一瞬頭をよぎりましたから、それなりに購入する人はいるのでしょう。

これで、味が想像を越えていたりすれば、それはそれで有りなんです。

家庭ではほとんど作ることは無いと思うし、レストランでもあまり出てこないものだけど、それなりに想像出来るものだけに、最初の一口で決まっちゃう、そんな商品ですね。

先ずは、大真面目に商品化を決定した人に拍手を、といった気分ではあります。
(決して馬鹿にしているのではありませんので、誤解なく)

2010年11月18日木曜日

ボージョレ・ヌーボー解禁

ボージョレ・ヌーボー解禁


フランス産ワインの新酒「ボージョレ・ヌーボー」が18日午前0時に解禁になり、そのイベントの状況がテレビに映し出されていました。円高や直輸入の増加等で以前と比較するとその内容は幾分下火のような感がしますし、何かもう特別のものというよりもいつもの恒例の行事のように思えます。

僕自身普段からワインを飲む習慣がありませんので、殊更に待ってましたとばかりに飲もうという気は起きません。最近ではペットボトルやサイズを変えて、値段を下げ、誰でもが手軽に手に入るような売り方が見られます。これも、その時期でしか売れない事の現れなのかもしれません。

習慣や嗜好といった個人的な部分に関わるものは、なかなか変わらないものです。ましてやそれがその地域や環境から育ったものであるなら、それ以外のものを受け入れることは容易ではありません。必要に迫られてとか、それがないと生活に支障があるといった切迫した状況がある場合には、仕方なくそれに従うようになりますけど、大抵の場合は受け流してしまうものです。

アート作品もそんな中のひとつなのかと思います。特に写真作品については、誰もが制作出来るし、印刷物やポスターなんかで日常的に眼にしますから、余計購入までしたいと思う人が少ないのが現状です。また、美術館等で眼にする作品の数々は、大変高尚であり、芸術性を有するものとして、その場に行く前の前提条件として頭にインプットしている為に、鑑賞し、楽しむもしくは理解することで自己完結したいと思ってしまいます。もちろん、美術館にあるものをその場で購入は出来ませんから、その先の行動は起きるわけがありません。そんな文化習慣は、日本全国どこでも見られることで、これが当たり前であるわけです。

それでは、作品を制作する作家にとって、その評価はどうなるのかということになります。簡単に言ってしまうと、それは作品を購入してもらう事にあります。小説とかマンガとかの出版物(デジタルでも同様です)を、一般の方に買ってもらうことと一緒ですね。違っている点は、一般的に思うほどの金額で手に入らないことにあることです。その為に、作品に感動し共感を持って購入したいと考えていても、やはり待てよと躊躇してしまうのです。

その辺りは、僕自身がもっとも良く理解しているところでもあり、そのことが常に葛藤となっています。でもね、この境界のような部分をクリアにしていかないと、極端な話、作家として活動出来る人はいつまでたっても現れてこないとも思うわけです。

僕に出来ることは限られていますし、それはとても小さな力でしかありません。

だからと言って、ただぼんやりとしていても何も起きないことは確かです。

ボージョレ・ヌーボーでも飲みながら、考えてみますか。

2010年11月17日水曜日

展示会の紹介です。

今日は少し毛色の違う(写真ではないという意味で)展示会のご紹介です。

展示会毎にいつも来て下さっているステンドグラス作家の野田律子さんの個展です。


僕は常日頃写真作品に触れ、年中そればかりを考えていたりすると思われがちですが、写真以外のものも努めて見ようとしています。理由はいろいろあります。物理的にモノとしてのアート作品に触れてみたり、インスタレーションを見たりして、単純に気分を変えたいと思うことの他に、何か今までは気付かなかったことや新たな考えが浮かんだりはしないかと思っているようです。


昨日もゆっくりと雑談をしながら、野田さんが話された「写真って難しいですよね」との一言がずっと頭に残っていました。確かに、写真は誰でも撮ることが出来るし、本来持っている記録としての役割から作品としての表現へ変わることには、誰しもが理解出来るものではないのかもしれません。ここで言っている「理解出来る」とは、作家が伝えようとしていることや思いといった形として現れていないものに対してであって、イメージから受ける感情や感覚についてではありません。

見る人は先ずイメージに強く惹かれるもので、出会ったその瞬間がとても大事なものになります。これは写真に限らず、どのアート作品にも言えることです。それでも、写真家はイメージそのものに、自分自身の感情や考えを表現しているとは限りません。むしろそうでない場合の方が多いように思います。

つまり、表層として見える部分以上に、そこから想起される世界観や感情の揺れといったものを伝えようとしているわけです。しかしながら、その思いは、独りよがりであったり、ごくごくパーソナルなものである為に、結果として理解されないことになる場合が多いのです。そういった展示会を見て来ている人たちにとっては、「写真って難しい」となることは当たり前のことだと思います。

これは、野田さんがそんな展示会ばかりを見てきたと言っているのではありません。敢えていうなら、写真を作品として制作し創造するものは、意識して伝えることを考え、「見せる」必要があるのでは、ということで、そこを無視していたずらに発表を繰り返しても、見る人にとっては、やはり写真って一部の人にしか分からないものなんだよねとしか思われないと言うことです。

さて、野田さんの作品展は、民家のようなカフェを会場に行われるとのことです。何か野田さん自身の紹介をしていないので申し訳ないのですが、タイトルのように、さりげない美しいものがきっと眼に出来るのではないでしょうか。

僕も自転車をひとっ走りさせようと思っています。

興味のある方は、是非行かれて下さい。



工房 碧(あお)のステンドグラス作品展 -ちいさいものたち-

2010年11月28日(日)~12月3日(金) 11:00~16:00

カフェ gratitude(グラティテュード)

仙台市青葉区梅田町1-56 tel: 090-2957-7263






2010年11月16日火曜日

休日の午後

昨日は休廊日だったこともあり、午後からは少しだけのんびりと部屋の方で過ごしました。寒さは感じましたが、ストーブは焚かずに、ソファーに胡坐状態で座り、毛布にくるまっていると、待ってましたとばかりにpolkaが乗ってきます。一週間溜めこんだ洗濯物を洗濯機で回しながら、しばらくはじっとガタガタ、ゴトゴトと奏でるその音を聞くでもなく一緒にぼんやりとしていました。


平日の午後2:00、ほとんどの人が仕事をしているであろう時間に、polkaの柔らかい毛を撫でながら、さて、何をしようかと考えている様子はあまり良い絵ではありません。しかも最近はプライベートで取り立てて何かをしたいという気持ちがあまり起きなくなってきています。よくない傾向だと自覚してはいるのですが、何もしないことも或る意味良いことと自分に言い聞かせているところもあります。

こんな時は大抵、芝居のDVDを取り出してくることになるのですが、昨日はDVDの棚の前であれこれ選んでいる内に、手にしていたのはボックスになっている映画でした。

「トリコロール」

制作はフランスですが、ポーランド、ワルシャワ出身のクシシュトフ・キェシロフスキ監督の三部作(フランスの国旗に因んで、赤、青、白とタイトルが付けられた作品)です。僕はこのすごく覚えにくく、言いづらい映画監督の作品が好きでした。全くもって娯楽性は感じられないのですが、何気ないひとつひとつのシーンは、自身により巧みに計算され、おそらくは全てのシーンにおける小道具のひとつひとつまでその意味や意義を説明出来るのではと思わせてくれます。かといって、監督のこだわりや演出が見え隠れしているだけかと言えばそうではなく、ちゃんとテーマに沿って、物語として成立しているところが彼のすごさなのだと思っています。それでも、その好き嫌いははっきりするタイプのものですね。ヨーロッパ映画にはそんな類のものが多くありますから。

さて、僕は三部作のどれを観たかというと・・・、実は作品は観ませんでした。このボックスにはサービストラックとして、監督、俳優のインタビュー集が一枚のDVDとしてまとめられていて、昨日はそれを見ました。(本作と合わせて4本セットになっているわけです)

このインタビュー集は何度見ても不思議と飽きません。むしろそのたびに違った思いを持たせてくれます。普通は説明されると何かつまらなく思えたりするものですが、全くそんな感じをさせずに、その時々で様々な考えを思い起こさせてくれます。いわゆるおまけ的なものでは無いところが良いのです。

ご興味がある方は、どこかで手に入れて見て下さい。

きっと、何かを表現をしようと思っている人にはとても興味深いものだと思います。

見終えた後、来月の催しはこれにしようかなと、考えながらふと横を見ると、polkaはすっかり夢の中です。

瞬間、ちょっと羨ましく感じてしまいました。

2010年11月15日月曜日

バレーボール女子世界選手権 メダル獲得おめでとう。

バレーボール女子世界選手権で、32年振りに日本がメダルを取りました。前日のブラジル戦の敗戦を引きずらずに、フルセットの末獲得したものです。チームを率いる真鍋監督のiPadが話題になっていましたが、スタッフからの的確な情報と伝達が功を奏したことも、勝因のひとつなのでしょう。


また、今朝のスポーツ紙には「光速の魔女」との見出しがありました。これは、セッターがトスを上げてからアタッカーが打つまでの時間が通常約1.4秒であるのを、日本は「1.1秒以内に打つ」と目標値を設定し、身長や体力といったすぐには解決出来ない部分を速さと組織力でカバーしようとするものです。わずか0.3秒です。すぐにも出来るように思われますが、選手本人にしても現在これが完成形だとは誰も思っていないでしょうね。それほど、大きな差であるわけです。

今回のメダル獲得には様々な理由があるのでしょうが、やはり敵はもちろん自分も含めた情報分析とその対策をより具体的に示したこと、そして明確な目標設定によるモチベーション維持なんかが大きなものだったように思います。

ここで、一番大事なところは、最後のモチベーション、つまりは「気持ち」なんだと、僕は思うわけです。選手は日本代表として、その責任の重さを僕らが想像する以上に感じ、一日中バレーのことを考えているような生活をしているはずです。それを支えるものとして、周りの人の支援や応援があるわけですが、何より本人の「気持ち」の強さが重要になってきます。

さて、ここから教訓めいたことを考えてみると、

わずかな差が大きな成果へと繋がる、現状分析から具体的なアクションを起こさなければ意味が無い、そして何より「気持ち」はその行動原理のもっとも重要なファクターである、

といったところでしょうか。

これは、単純にスポーツに限ったことではありませんね。そして、忘れちゃいけないのは、それを達成するには時間が掛かることで、それでも完成なんてしないものだということです。

ぐちゃぐちゃと悩んでいるだけでは、停滞しているだけですから、昨日より今日、今日より明日へとほんの少しでも前進していけば良いのです。やはり、実際の行動として起こさなければいけないということですね。

そんな檄を飛ばされた気分になったのは、僕だけでしょうか。

2010年11月14日日曜日

ドイツからの便り


2日前に届いた一通のエアメール。


そう、前にこのブログにも書きましたが、会社勤めの時の部下だった男がドイツから僕宛に送られたものです。そこには、ドイツに滞在して34日目と書いてあります。おそらくは、言葉も文化も違う毎日に翻弄されながら、加えて全く新しい仕事に四苦八苦しながら過ごしているのだと思います。

お世辞にもきれいな字とは言えない文面を見ながら、一時的とは言え、日本からひとり離れ、心細いこともあるのでしょうが、何とか楽しんでやっている姿を想像しました。どうやら、工場でけがをしたらしく、人生初の救急車搬送を経験したようで、とても心配です。文面では大事には至らなかったとありましたが、本人曰く「大槻ケンジ」のようになると思いますと書いているので、やはり心配になります。

文化や環境が違う場所で、たとえ短期間であれ、観光ではなく、実際に生活を送る経験は今後の彼の人生にとっても貴重なものになると思います。おそらく、日本人であるとかドイツ人であるとか、国民性の違いや違和感を覚えているのではないかと想像します。そして、自分が日本人であることを強く意識していると思います。

普段、日本で何気なく過ごしている僕たちは、日本人であることのアイデンティティーを感じることは滅多にありません。むしろ、個人としてのそれを意識しながら、他人との関係に幾分煩わしさを覚えながらも、それはそれと納得させて生きているような気がします。

それでも、例えは陳腐ですが、昨日の女子バレーブラジル戦を見ている時、冷静にゲームを楽しみながらも、日本人として応援している自分がいることを否応なく感じます。これは、日本に生まれ育ち、自然に培ってきたものではありますが、もし海外で日本人として生まれ、そこで育てられた場合はどうなのだろうかとも考えてしまいます。

そう考えると、やはり日本人としてのアイデンティティーよりも、むしろ個としてのアイデンティティーの方が生きる上では重要なことのように思えてしまいます。だからこそ、国が違っていても心から理解出来たり、同じ地域にいながらも全然一致するところがないような事が起きるわけです。

まぁ、そこには相手に対する尊厳とか寛容といったものがなければいけないのですが、何かその辺りは徐々に失われていっているように感じます。彼が帰国して、人やモノの対する感覚がどう変わるかは分かりませんが、おそらくは以前のそれとは違うだろうなとは思います。

いずれにせよ、今或る時間や置かれた自分を楽しみながら、元気にやって欲しいだけですね。

ハガキをくれてありがとう。(でも、このブログは見ないだろうな・・・。)

2010年11月13日土曜日

深夜の映画

深夜3時頃に目が覚めてしまい、仕方なくテレビを付けてしまいました。10年前までは当たり前のように起きていたこの時間帯も、今ではもう滅多に起きていることは無くなりました。テレビから映し出されたものは、外国の男女2人が会話している姿でした。


よく知った2人の顔からその映像がなんであるかは、すぐに分かりました。

「ビフォア・サンセット」(Before Sunset)です。

深夜の時間帯だったこともあり、地上波では珍しく字幕で放送されていて、聞き覚えのある声が静まり返った部屋に拡がりました。polkaも物音に気付き、のそのそと歩きまわった後、一度伸びをしてから、僕の膝の上に乗ってきました。いよいよもって、もう少しはこのまま見ていなくちゃいけないような感じになってきました。

この映画は、「ビフォア サンライズ 恋人までの距離」(Before Sunrise)の続編で、この時もそうだったのですが、全編2人の会話だけで物語が進む形を取っていました。出演している2人の俳優にはそれほど興味は無かったのですが、その時はなにかドキュメンタリーのような感じで、自然な会話が新鮮に映りました。もっとも、自然にああいった掛けあいが繰り広げられることはありえないのですが。

物語は簡単に書いてしまうと、9年前の出来事を小説にした男性がプロモーションでパリを訪れた時、彼女と再び出会い、男性が飛行機でパリを出るまでのその日の数時間に交わされた2人の様子が描かれているだけです。会話は前回同様軽妙かつ自然なよそよそしさもあり、以前にも増して脚本の良さを感じさせます。

とても都会的で洗練した感じではあるのですが、イーサン・ホークの雰囲気が男の女々しさを感じさせ、また、ジュリー・デルピーの強さに隠された本当の弱さみたいなものが見え隠れするたびに、どこにでも普通にある日常であるかのような錯覚を覚えます。

実際こんなことってほぼあり得ないし、あったとしてもこれほどの親密感を持って過ごせるとは思えないし、その辺りが同じリアリズムでも映画の中の出来事なんですね。でも、見る側は、そう良く分かるよねとか親近感があるよねとある種のシンパシィーを感じるんです。そこに面白さや共感が生まれるから、娯楽としての映画があるような気がします。

さて、僕は最後まで観たのでしょうか。ややあって横になった僕のお腹の上で、興味なさげにじっと僕を見ていたpolkaだけが知っています。

また、2人がどうなったのか、興味のある方はレンタルビデオで観て下さい。

2010年11月12日金曜日

一線

今朝は寒さが顔に来ました。朝起きる前からタイマーを設定してガスストーブを点火させていればそんなことにはならないのですが、今からこれではとの気持ちもあり、そうはしていませんでした。人から見れば大した理由にもならないものです。


個人的な問題や行動に関わるものの中には、そういった理由もなくやってしまっていることはあるはずです。他人との関わりが発生し、それが一般常識として通用しないものであったり、抵抗されるであろうことは、自分の意に反していても、我を通すことはあまりありません。でも、100%個人的に消化されるようなことについては、他人が首をかしげようが、苦言を呈してこようが聞かない場合がありますね。

信念とか生き方とかそんな大それたことではなくても、譲れない一線のようなものです。朝のガスストーブを付けておかないことは当然ながらそれには当たりませんが、本人が気付いていようがいまいが、自然にそうしていることって必ずあるのではないかと思います。

これがどうしても他人と関わりを持ってしまう場合、その時どうするかが問題になってきます。大抵の場合、意見の衝突や議論であったり、上下関係による軋轢なんかが生まれてくるわけで、損得やお金が絡んでくると一層複雑なものになってきます。それでも、お互いに良いものを作り上げていくにはといった同じ目標でそうなっているのなら、まだ救われます。そうではなく、互いのエゴだけでぶつかり合っている場合は、傍から見ていても最悪に感じられます。

物を創るもしくは生み出す人たちのほとんどは、そんな一線を持っています。これが時折エゴと見られたり、理解不能なものと捉えられる場合があり、アーティストはちょっと変わった人のような印象を与えています。本当は全く違っていて、そんな人だけが目立つだけです。一般の方と変わらず毎日生活し、些細なことで悩む普通の人たちが多いのです。

ただ少しだけ違うのは、その一線が一般の人と比べて、固くて太いことだと思います。

だから、その線が崩れたり、ブレたりすることが少ないわけです。そして、作品を通して自分の思いを伝えようとし、俯瞰した眼で時代を敏感に察知しながら、自分の居場所なり立ち位置を考えつつ、世に問いかけを行っていけるのです。

まぁ、あまり固く太くなってしまうと、ちょっと敬遠されがちになってしまいますが、そこもアーティストと言われる所以でもあると思いますし、何よりそれが自然に行われていることの方がその人にとっては大事なのです。

2010年11月11日木曜日

「1」 が横並びする日

今日は11月11日です。


「1」 が横並びする日ですが、年一回、必ず来るわけでとりたてて珍しいことではありません。ましてや、来年になると2011年ですからさらに「1」が並ぶわけで、でも年明け1月1日や1月11日でも似たようなものですから、あまり話題に上がらないのかもしれません。

それでも、毎朝大抵のテレビ番組で行っている占いやネット上で自分の今日の運勢を見ている人は沢山いるでしょうし、日にちについても結構気にする人がいるのでは、とは思います。また、イベントや商品販売なんかは、それにあやかって企画を立てている場合がよく見られます。

個人的にはそんなことよりももっと大事な日があるわけで、ただ物珍しいから何かをすることはあまり聞きません。自分や親しい人たちの誕生日であったり、結婚記念日なんかの方が、はるかに何かをする価値がありますし、個人的なことだからこそ価値があるのだと、僕は思います。

何かを共有する感覚は、その範囲が狭ければ狭いほど濃くなるものです。会社の組織に属している場合、全体の方針であったり、社是は理解しているものの、結局は担当となった部署内の具体的な行動や関係性の方が強いものです。ましてや、利害関係があまり無い(と思われる)家庭や家族であればなおさらのことです。

僕の場合はあまり記念日的なものはありませんし、それほど多くの人たちとの関わりもありません。何か寂しい人生のように思われるかもしれませんが、本人はいたってその辺りには無頓着な性格ですから、気にするまでに到っていません。

毎日ギャラリーを開け、それほど多くの方は見えられませんが、そんな方々が自然に語りかけてくれる瞬間があるから、それで良いとさえ思っています。毎日がそうかと言えば、決してそうではありませんし、もしそうなったらそうなったで、逆に困惑してしまうような気もします。

毎日が記念日のようだったら、何が本当なのかがぼやけてしまいますから。

少なくても良いから、もっと濃い中身を望んでいるのかもしれません。

もし、それが感じられたのなら、その日が記念日になるのでしょうね。

2010年11月10日水曜日

フォトブック

江口敬写真展では、作品はもちろんのこと、フォトブックとポストカードの販売を予定しています。


展示は数週間のイベントで、残念ながら来場して下さるお客様にしか実際の雰囲気や感覚を伝えることは出来ません。それに、映像や写真で会場の状況を残しても、それは単なる記録です。そこが展示会として意味あることではあるのですが。

今回の個展は彼にとっても初めてのことでもあるし、僕は何か形として残るもの出来ないかといろいろと検討しました。その結果として、あまり大げさでは無く、小振りのフォトブックを選んだわけです。

江口氏には失礼な話ですが、彼は写真家としてまだまだ無名に近い存在と言えます。そんな彼がフォトブックを作っても果たして売れるのかとも考えました。それでも、そんなリスクや不安よりも、彼の作品を多くの人に見てもらいたいとの気持ちの方が上回り、彼もそれを理解してくれ、制作することとしました。

さて、制作はするけど、印刷と製本をどこでするかという段になった時、僕の頭に真っ先に浮かんだのは、以前から青森からわざわざギャラリーに来ていただいていた印刷会社の方にお願い出来ないかということでした。早速連絡を入れたところ、快諾して下さいました。ホント、感謝です。

実を言うと、ネットでもそのようなサービスはありますから、そちらも検討には入れていました。でも、何か顔の見えないところでビジネスライクに制作することに、何故か違和感があり、結果、依頼してみることになったのです。

フォトブック制作は現在進行中です。きっと良いものが出来ると確信しています。



福島在住の写真家の個展を仙台で開催し、青森で制作されたフォトブックを販売するわけで、非常に個人的ではありますが、東北3市(県?)が繋がった感じがします。
これも全て、人の縁から生まれたものですね。

フォトブックは現在、特別価格で予約申し込みを受付中です。
嬉しいことに、昨日から申込みが入っています。

是非多くの方に購入のご協力をお願いします。

2010年11月9日火曜日

街をぶらぶらと

昨日はサイト更新後、久しぶりに街に出てみました。街に出ると書くと何か普段は山奥に住んでいるようですが、ギャラリーも充分に街中にありますので、ご安心を。実際、休廊日以外は自由な時間が午前中だけですから、よほどのことが無い限りは出歩けません。時間も限られているので、じっくりと見て歩くことすら出来ないのが現状です。


まぁ、ひとりで全てを行っているので仕方ないのですが、時々自由業とは名ばかりだよと言いたくなります。昨日はこれまた久々に穏やかで暖かく、自転車を走らせていてもそれほど風の冷たさは感じませんでした。そんなこともあり、ほんの少しだけ色づく紅葉も見ることが出来ました。仙台は常緑の木が多いので、この時期になってもあまり秋を感じられないなと思っていましたが、ぐるぐると走ってみるとそんな光景を見かけることがあります。

普段目にしている日常の風景や情景は、ただその場にいるだけで、注意して見なければ、さまざまな変化に気が付かない場合が多いです。むしろ、そんな気付かない小さな変化にこそ、新しい発見のようなものがあるように思えます。もちろん、それには注意深い観察や先入観なく物事に接するだけの余裕が必要になってきます。

今ここに或るもの、起きていることがこの場では日常で普通のことであっても、他の人の眼には違って見えることは当然のことです。その為に、人は外の世界や他文化に触れるように、旅行とかをするわけです。別に、生まれてから死ぬまでをひとところで過ごし、一度もそこから出ないことがあっても、特別生活をする上で支障になるわけでもなく、外の世界を殊更に知る必要もないのですが、多くの人は違う世界に足を運びます。より良いものを見て、実際に経験したり、そこから喜びや驚きを見出したりすることは、人の本能に近いものなのかもしれません。

さてと、駅前から一望した仙台の風景は、個人的にはまるで東京の街を寄せ集めたように見えます。ビルの看板も建物に入っている名前も聞き覚えのあるものばかりです。確かにスクランブル交差点や歩くのもままならない人込みの多さはありませんが、まるで映画のセットのように感じます。余計なお世話なのですが、ここに暮らす人々は、このような都市空間のレプリカが便利で快適な生活空間と感じているのかなと思ったりもします。それも、そこにいる人々の本能に近い願望であるのなら、それはそれで間違いではないのでしょうね。

そうは思いながらも、今はそこではない部分に目を向けていこうと考えている自分がいるわけです。

すぐには変わるわけではない現実と自分自身にある多くの矛盾を抱えながら・・・。

2010年11月8日月曜日

早く更新しないと・・・。

さてと、昨日お約束したように、出来るだけ午前中にサイト更新をしようと思っています。
でも、遅れたらごめんなさい。


江口敬写真展では、テーマ性や作品性はもちろんのこと、「見せる」ことをかなり意識した展示会になっています。僕は写真家ではありませんから、自分で撮影し、作品制作を行っていません。写真家の作品を紹介し、展示・販売をしているだけですから、はたから見れば、誰でも出来そうなものだとも言えます。

写真家の中には、その展示において、コンセプトや方法を綿密に検討する人もいます。それでも自分自身の思いや考えが、見る側に実際伝わるかどうかは不安になるものです。その為、ディレクターやキュレーターの存在が重要になってきます。いわゆる第三者的な立場の人間の意見や考えですね。しかも、その第三者は誰でも良いわけでは無く、写真家が思い描く作品観や写真家自らをも理解していなければなりません。ある意味、一体となってその全容を制作していく必要があるわけです。

僕は作品におけるテーマやコンセプトを明確に表わすことと、展示してその世界を表現することとは密接な関係性を持っていなければならないと考えています。写真作品は、絵画等のように、額装にしても展示方法にしても華美であったり、奇抜であったりすることはあまりありません。時代とともに、やや変化はしていますが、一般的にはそうであり、その辺りは賛否両論分かれるところではあります。

僕自身も殊更に演出し、華美にする必要性は感じませんが、展示におけるテーマやコンセプトはあってしかるべきものだと思っています。しかも、それはかなり自由であって良いと。こんな風に書くと、江口敬写真展はかなり変わった展示会のように思われそうですが、それも見る側の自由であって良いと考えています。

今言えるのは、いわゆるギャラリー然とした展示ではないということです。



おっと、時間がなくなってしまいます。先ずは更新作業をします。

詳細はサイトで!!

2010年11月7日日曜日

さて、サイト更新するぞっと。

ハービー・山口、ヨーガン・シャドバーグ写真展 Two in One in Englandも折り返しになりました。残りまだ1カ月ありますので、是非お見逃しなくお出で下さい。特に、ヨーガン氏の作品は日本ではほとんど見る機会がありませんし、ドキュメンタリー作家らしい視線が感じられる今では珍しいタイプのものと言えます。ハービー氏との違いも見れますので、現在スナップ撮影をしている多くの写真愛好家の方にも、参考になることは間違いありません。


そうこうしている内に時間は過ぎて行くもので、そろそろ次回の写真展の情報をサイトでも告知しないといけません。次回は、福島在住の江口敬氏の個展になることは、サイト情報として一部掲載していますが、イメージ等詳細情報は一切載せていません。(Sha-gaku参加時のポートフォリオ作品一部はSha-gaku Special Siteで見ることは出来ます。)


初個展となる今回の作品は、Sha-gaku延長線上のものもありますが、そのほとんどはあるテーマに沿った新作になります。現在の彼自身が感じているもしくはこれまで感じていた世界観や写真との関係性を表現したものです。何かこう言葉にすると独りよがりの、難解なものと思われるかもしれませんが、全くそんなことはありません。


見る人それぞれが違った感覚で捉えてもらって構わないし、単純に目にしたものを体感として楽しめるように展示構成も考えています。そういった意味では、全ての表現がギャラリー全体で行われているわけで、実際に目にしてもらうことで理解や共感と言ったものを得られるようにしたいと考えています。

ひとまずは、明日サイト更新をしようと思います。(さぁ、ちょっと忙しくなるぞと、こうして書いている今の自分に言い聞かせています。)

お楽しみにお待ちを!!

2010年11月6日土曜日

「箱」

今朝の情報番組の中で、築地場外市場のビルの中にあるお寺が紹介されていました。5階建てと思われるビルの3階から上がお寺のようで、屋上には自動の鐘突き堂もあります。4階が本堂で、その上のテラスのような部分にお墓が足の踏み場が無いくらい並んでいました。最近は都会ではお墓事情も色々なスタイルが出てきていて、ビル自体のフロアを納骨堂にして、例えは悪いですがコインロッカーのような感じで並んでいる様子を以前見たことがあります。でも、今回のそれはまるっきりお墓が並んでいるので、逆に不思議な感覚です。墓地って郊外の小高い丘にあるようなイメージがいまだに残っているので、そう思うのでしょうね。いずれにせよ、お墓があるだけでもまだましなのかもしれません。


よく芝居の劇場やギャラリーなんかを「箱」と言いますけど、人は生まれてから死ぬまで、いや死んでからも「箱」の中にいるような気がします。僕にとって、「箱」から浮かぶイメージは、覆い隠されて外から見えない、その中で何が行われていても不思議ではない、そんな感じです。

家族として一軒の家に住んでいても、多くの人はそれぞれの部屋を持ち、自分自身の「箱」を持っているものです。もちろんそうではない人もいますが、おそらくは見えない「箱」のようなものに包まれながら生きているような気がします。これは、家族であってもひとりひとりが別々に生きているものなんだよとか結局は他人とは分かち合えないとかを言っているのではありません。

うまく言えませんが、人がこの世に生を受け、幾度も待っている困難や苦労の現実から、唯一逃れることが出来る空間を本能的に感じ、無意識の内に退避出来る、そんな場所のようなものです。ある人はその中で妄想したり、希望のエネルギーを自分自身に注入したり、ほんの些細なことに喜びを見出したり、深く思考したりと、決して他人には触れられない聖域のようなものなのかもしれません。

そんな場所をいろいろなところに持っている人は、ある意味、幸せなんだと思います。中には苦しいだけの「箱」に入っていると感じている人もいるのでしょうが、本来そういう「箱」なのかどうかを本人ですら気付いていない場合もありますから。

僕は今、どんな「箱」に入っているのか、その「箱」は何を僕に見せてくれ、何を隠してくれているのか、問いかけは音も無く闇の中に消え去っていきます。

今はまだ・・・。

2010年11月5日金曜日

言葉

人が表現する方法はさまざまありますが、もっとも理解しやすく、どなたでも出来うるものが言葉です。日常的に意思の疎通を図る手段として使われているわけですから、話す或いは書くことで考えや思いを伝えようとしています。このブログだって、拙いながらも言葉を介して、日々更新されています。


小説や詩歌といった書き言葉によって綴られたものと、ネット上に現れるリアルタイム的な文字情報は、その表現の意味合いが違います。前者には書き手の真意が必ず見え隠れしていますが、後者は書いている情報とその目的がイコールだということです。主観と客観と言ったら良いのかもしれませんが、最近はどこまでが主観でどこからが客観であるかの境界が曖昧に思えてしまう時があるので、それともちょっと違うかもしれません。

何であれ、人は常に表現をしなければ生きていけないことだけは確かなようです。生活する為には、うわべ使いの言葉であっても、その場限りであっても、他者とコミュニケーションをとらなければ、自分の欲しいものを得ることは難しいですし、必要なものを手に入れることすら出来ませんからね。その為に、意識しようがしまいが、常に一所懸命に言葉を使っているのだと思います。

言葉というものは、その人の強烈な武器にも個性にもなります。何気ない一言が人を幸せにしたり、逆に失意のどん底へと突き落としてしまったりしますからね。同じ言葉でも、この人から言われると何故か安心したりするけど、他の人だと逆に不安になったりしますから、とても不思議な力を持っているのだと思います。

そんな言葉を日常的に当たり前のように使い、生活をしている僕たちはきっと不思議な存在なのでしょう。そうすると、言葉を使わずに何かを表現しようとしている人たちはもっと不思議な人間のように映るのでしょうね。

2010年11月4日木曜日

寒い・・・。

それにしても寒いですね。約30年振りに仙台に戻ったのが、昨年の一番寒い2月でしたが、その時は今よりもそれほど寒さを感じなかったように思います。おそらくは、自分の中でもかなり寒さを覚悟していて、その想像との違いがそうさせたのかもしれません。


今年は、9月までの猛暑とのギャップが大きく、わずか1カ月の急激な変化に身体と頭が付いていってない感じですね。polkaはどうかと言えば、相変わらずですが、やはり寒さは感じているようで、好んで温かい場所にいようとします。

僕のいない昼間は、ベッドにもぐり込んで寝ているし、帰ってくればソファに座っている僕の膝の上に乗ってきます。一番温かいものが僕ですから、単純に暖を取りに来るだけなのでしょうが、夏場には見られなかった行動です。毎年そんな感じかと言えば案外そうではなく、ネコらしく気ままです。

そんなpolkaの姿を見ながら、時々本当に自由で気ままなのかと考えてしまうことがあります。昼の間は自分だけしかいないわけで、その状態が自由であっても、閉ざされた空間にいるだけなので、案外ストレスを感じながら、時間が経っていくことを待っているのではと思ったりします。

夜になり部屋へ戻った時に、ドアの前で待ち構え、開くと同時に鳴いてみたり、足元に頭をこすりつける行動は、今日もひとりがんばったよと表現しているようです。その後、決って水とエサを要求するわけで、それは自分に対しての当然のご褒美のような感覚なのかもしれません。

そんな行動にことごとく馬鹿みたいに僕は答えるので、一層そんな気持ち?を助長させていることは分かっているのですが、やはり無視することは出来ません。そこには、外の世界を知り、もっと自由に動けるほうがネコらしいのではとどこかで思っているからなのでしょうね。

僕が毎朝部屋を出て行く時に、polkaはその姿を離れてじっと見つめています。鳴きも騒ぎもしません。また、戻ってくるだろうと軽い気持ちでいるのかもしれませんが、本当のところは分かりません。

今夜あたりからガスストーブに火を入れようと思います。

2010年11月3日水曜日

今日は文化の日です。

今日は文化の日で祝日です。本年度から東北文化の日なるものを東北6県で決め、先週の10月30、31日がそうでした。東北文化の多様性を県境を越えて親しんでもらうきっかけになればとの趣旨があります。今日も、さまざまな美術館・博物館等の文化施設が無料で開放されたり、各種イベントが開催されるようです。


僕もそうですが、文化というと何故か芸術やそれに類するものを連想し、この文化の日もそんなものに触れる日のように感じるのですが、実際のところ、文化と芸術は違うものです。感覚的には文化が芸術を内包しているような気がするのですが、誰しも普段はほとんど気にも留めていません。むしろ、文化は日常そのものであり、その中で常に芸術に触れていると言った方が良いように思います。

文化とは、「総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体」(Wikipediaより引用)と、何だかよく分からない定義をされています。ようするにそれぞれの社会や環境から導き出された知識、教養、信仰、道徳、法律といったものを、その社会に属する人々が理解し、それに属し、普段の暮らしぶりの中に沁みついたものと言ったところなのだと思います。

その為、地域(日本を問わず)ごとにさまざまな文化があり、その価値観もまるで違っていたりするのです。現在は情報が錯綜し、しかも急激なスピードでその内容が入手出来る状態ですから、実際、その場にいなくても経験し、理解したつもりになれるようになりました。でも、それはあくまで「つもり」であって、実際のところは、その場にいなければ分からないことだらけなのです。何故かと言えば、普段の暮らしぶりとしていないからですね。

じゃあ、文化はその土地や地域でしか感じることが出来ず、とても閉塞したものかと言えば、そうではありません。そのあたりが矛盾しているように思えますが、他文化や価値観の相違を理解、容認し、独自の文化に取り込むことは全くもって自由なのです。だだし、ただ便利になる、他でもそうしているからとやみくもに利便性や効率性を文化の名のもとに取り入れても、それは不毛で哀しいことです。

さて、今日は文化の日です。一日ぐらいはそんなことを考えてみても良いと思います。

先ずは、天気も良いことですから、冷たい秋風に触れ、ほんの少しだけ違った気分で周りを眺めてみてはいかがですか。

2010年11月2日火曜日

BGM

今回の写真展で流れているBGMは、これっとひとつに決めていません。その日や週により変えています。それじゃあ、作品とマッチングしないのではと思われますが、その辺りは気にしながら選んでいます。


そもそもこういった展示会でBGMなるものは必要なのかということがあります。僕自身基本的にはいらないと思っています。但し、よりよく作品世界や作品性を理解してもらう為のファクターのひとつとして考えるべきだとは思っています。過度に演出する必要もないし、見る人の邪魔になるようなものであってはいけないものです。

よく音の中で、1/fの波長は人に対して癒しや安らぎの効果があると言われています。お店なんかで良く聞くものの中には、それを意識しているだけのものが流れていることがあります。店の雰囲気や商品イメージを効果的に感じさせる事が主な目的ですね。

写真展のような作品一点一点や全体としての世界観を表現しているものは、その見せ方で決まるものであるべきだし、その他の効果を取らずに行われるのが本筋なのだと思います。しかしながら、表現しているものを直に見る人に伝えることは、非常に難しいものです。

自分が考え、思うこと、そしてそれが具体的な形となった作品は、多くの人にその思いなりが伝わるものだと思われがちです。実際は、そうではありません。タイトルから受ける印象、作品ひとつひとつの違い、そして全体の構成から受ける感覚は、人それぞれで、感じるまま思うがままであるはずです。

その為に作家や僕のような者は、より理解してもらえるような工夫をするわけです。そこには押し付けのような過剰な説明があってはいけませんし、作家の意図とは異なった印象を与えるものは必要ありません。僕はその検討や作業を、さりげない心遣いのようなものだと思っています。

さて、今週は何を流そうか。

2010年11月1日月曜日

完成することなんて絶対にないのですから。

昨日はワークショップを行いました。参加された方は3名と若干少なかったのですが、その分レビューも含め濃い内容を話させてもらいました。時間もあっという間に過ぎ、気が付けば20:30をゆうに回っていました。


2人の写真を見せてもらい、話を聞かせてもらうと、写真が好きであることは充分に伝わってきます。そこから見えてくるものには、素直な感情や思いといったものが表れていて、僕自身とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。

それでも、その写真たちを作品として発表までとなると、本人も認識しているようでしたが、ほんの少し時間はかかります。なにより、発表する、伝えるもの自体が明確になっていなければいけません。人はだれしも、自分がする行為に対して、意味を求めるものですから。

また、どなたもそうなのですが、写真やそれを撮影していることに対して、非常に謙遜されます。東北人の気質もありますが、こちらでは特にそう感じます。人に見せ、評価を受けることは非常にこわいことです。これまで自分が信じてしていたことが、一言で崩されることもあるわけですし、基本的に批難されることや否定されることを嫌がりますから、その予防線として当たり前なのかもしれません。(実際平気でそんなことを言うレビューワーもいますから)

それと、よく聞くことは、今の私ではまだまだで・・・という言葉です。何を持ってそうは話されるのかは良く分かります。おそらくは、他の作品を展示会であったり、写真集であったり、それを目にし、こんな写真を取りたいと感じているからなのだと思います。そして、ひとつの到達点のようなものを、無意識に自分で決めてしまい、自分が本来撮りたいものであったり、望むものを撮り損なっているケースが多く、結局は何を撮っていいかいいのかとか自分には明確なテーマが見つからないと思ってしまうのです。

影響を受けたり、模倣したりすることは大事なことです。否定するつもりはありませんし、それを1つの目標とすることも悪いことではありません。それでも、同じカメラを何人かに持たせ、撮影をしてもらった場合、同じような写真が集まるかと言えば、そんなことはありえません。何故なら、そこには人それぞれの意思が働いているし、その意思自体は同じものであるはずが無いからですね。

人と違うから面白いわけで、私はまだまだで・・・といって、自分の中に理想や完成形を作らないほうが良いと思います。

だって、完成することなんて絶対にないのですから。