2011年6月8日水曜日

良き表現者は善き鑑賞者でもある

良き表現者は善き鑑賞者でもある


どこかで聞いたことのある言葉のようですが、さまざまな写真家の方やその他のアート関係に携わっている方々、また写真が好きな一般の人々と触れる機会が増えるたびに、そう感じます。

表現者の多くは、自分自身の内なる言葉を聞き、問いかけを行い、実際の形あるものとして発表するわけですが、自身の事だけに没頭し、周りを見ないような人は案外少ないものです。他人を見ることから何か刺激を受け、影響とまではいかないけど、これまでとは違った視点や発想を得ようと、自然の内にそうしているように思います。

それは学習とか経験を得るためにとかではなく、単純に自分との違いを発見し、感じられることが楽しいからそうしているようにも見えます。平静を装いながらも、実は心躍り、ドキドキとしているように思える時もあります。そして、その事は自分の領域外のものに触れた時に多く起こるようにも思えます。

一方、表現を自らはしていない、いわゆる作品を見ること、触れることが好きな一般の方は、これまでの経験や知識の外側の領域のものを見せられると、一瞬拒否感と違和感の方が先に感じられるようです。その為、大抵は期待以上のものを求めているのだけど、自分の領域を越えたものは理解出来ないと思ってしまうから、自分の分かるものを見て楽しむようになるのです。結果として見る対象を自らが狭めているとも言えます。

でも、これも悪いことではありません。誰だって自分の興味の無い、好きでも無いものを見たり、触れたりすることを大事な時間の中に割いて入れようとは思いませんからね。至極、当然のことなのかもしれません。

ただ、それだけではつまらないよなとも思うのです。いろいろな世界を見て、これまでとは違った体験をし、いくつもの考えを知り、自らがそれらから感じるものを理解しようとし、結果理解出来ない、受け入れられないとしても、その方が良いように思うわけです。

善き鑑賞者とは、自分の考えの及ばないものに対しても何かを感じ、理解しようとする人たちであって、表現もそれに近いのだと思います。対象が内か外かに違いはありますが、結果、形として外側に向けられるのですから、同じだと言っても良いのかもしれません。

だから、良き表現者は、自らの作品に対しての善き鑑賞者でもあるべきなのです。

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