2011年7月20日水曜日

自らへの問いかけが共感へ変わる時~樋口清之

さてと、今日で4人目、最後の紹介になります。


福島県福島市在住の樋口清之さんです。

「日々から日々へ」、タイトルから想像されるかもしれませんが、彼は日々の家族との日常を撮影しています。家族を撮る行為は、主に記録や記念であり、日常茶飯事的に行われないことの方が多いと思います。

なぜなら、あまりに個人的であるがゆえに作品たらしめることが難しいし、やはり家族で後にアルバムを開きながら懐かしがったりすることの方が多く、見る方にとってもその印象が強い為、本来表現したい部分が薄れてしまうからです。

僕が彼のそういった写真を初めて見たのは、一年以上前のことです。他の違った対象の写真もあったのですが、不思議なことにこの一番作品化が難しいと思われる家族の光景を切り取った写真に、僕は引っかかりを感じたのです。引っかかりとは、まだ何物かは分からないけど、何故か妙に気にかかる、まぁ、直感みたいなものです。

でも、その時点では具体的にどうすれば良いとか、それで何が表現出来るかといったところまではいかなかったし、彼自身も作品化することは考えていませんでした。むしろ、こんなものを展示、発表することに何の意味を持つのかと疑問すら感じていたかもしれません。

あれから、日々が過ぎ、彼自身にもさまざまことが起こったのでしょうが、”Love and Joy”の参加募集も知らないまま、ギャラリーへ訪れてくれました。そして、写真を展示・発表したいと話してきたのが始まりでした。僕はすぐに以前見た家族の写真を思い出しました。それと同時に、”Love and Joy”とのつながりを意識し、彼に参加を勧めたのです。

彼の撮った家族の光景は、それだけを見るととても地味で、思わず目をみはるような類ではありません。かといって他人の家族アルバムを見ているような感覚にもなりません。それは、見る側にとっては非常に不思議な感覚だと思うのです。何故なら、作品全体に流れる彼自身の家族に対する眼差しや距離感といったものが、普通に家族と接する時に起きるであろうそれとは明らかに違っているからです。

ポートレイトを撮る場合、コミュニケーションが必要で、撮る側と撮られる側との距離感を良く言われますが、彼の写真の中にあるモノや人はまさにいつでも一緒にいるといった一番距離の近いものばかりです。ここで、そういった距離感云々を語ることすら、おかしなことです。

しかも、テレビや映画のようなドラマは、日常で起こり得るかというとそうではなく、日々淡々と過ぎていくものです。それらを期待しているのなら、むしろこのような写真を撮る意味はないわけで、それこそ記念写真として残せば良いことです。

彼はそんな難しい課題を自分に課し、あえて表現を試みることで自分自身に撮ることの意味を問いかけているのです。問いかけの結果が、見る側にどんな作用を起こすかは、見る側自身の経験や感性の部分に委ねられます。


もし、この壁面一杯に展示された作品を見て、彼自身への問いかけに共感を持たれたなら、ここにある光景のひとつひとつは彼自身のものだけではなくなるわけです。


おそらくは、彼もそれを望んでいるのだと、僕は思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿