2011年3月2日水曜日

発想から表現、そして・・・。

物事の多くはひとりの人間の頭の中から生まれます。人は自分がこうしたい、こういうものがあればいいなとか頭の中であれこれと考えます。それを発想というのでしょうが、ことそれを現実化すること、そしてそれらがすぐ世の中に受け入れられるかと言うとそうではありません。


身の周りにある日用品の多くは、そのような発想と時代の要求(大衆性とでも言うべきもの)から生まれては、消えていきます。始めはごくごくパーソナルな部分であっても、それらのものや考えに共感を受け、受け入れる人間が多くなればなるほど、共鳴し、拡がりを持つわけです。しかも、人の欲求は非常に強く、次から次へと要求度を増し、完成度が上がっていくものです。

表現の発露も非常に個人的な部分に寄ると言えます。というより、それ無しでは生まれることはないのです。小学校の美術ではないけれど、教室にいる全ての子供たちが自分の好きなように絵を描いているかと言えばそうではありません。自分はこれを描きたいと思っても、大抵はあるテーマを与えられ、それにしたがって行うことが多いからです。だからといって、自由に好きなように描いて下さいと言われても、困ってしまうものです。

自由であることは、ある意味不自由さを内包しています。また、人は何かに属することを欲し、それ自体に満足感を覚えるものですから、よほどの覚悟が無い限り、自分は自分として独自の表現を行うことは困難なのです。言葉を変えると、属性の中でこそ、自我や個性が生まれてくるし、そこで疑問や不安を抱くことで発想が生まれるのです。

何も不安がなく、その場に満足しているのであれば、それで良いのかもしれません。そして自分が楽しめて、平穏や安定を望むことは決して悪いことではありません。むしろ、多くの人はそのような世の中(身の周り)になることを望んでいるのだと思います。

しかしながら、僕はあくまで大勢の中の個人にこだわりを持ち、自分の発想に従って、表現して欲しいと考えています。自己満足も出来ないものは、他人にも受け入れられるものではなく、むしろそこから他者との共有を求めていくものなのだと思います。自分自身にも他者に対しても寛容することが一番大事な部分ですが、そこに疑問を常に持ち続けることが自分自身の在り様で、そこから表現へと繋がっていくのだと思うわけです。

つまり、発想から表現、そしてそれらを目の前にあるものとして提示することは、たぶんに内向きの真摯な行為が無い限り生まれるものではないのです。

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