2010年9月9日木曜日

「感じる」

涼しいです。昨夜の台風通過に伴って、気温は下がり、一気に秋気配どころか、秋になったようです。それでも、23、4℃はあるようで、いかに今までが異常な暑さだったことが、肌を通して実感出来ました。今朝もそんな感じなので、ショートパンツからジーンズに変えました。


polkaの調子はいくらか良くはなっているようです。本調子にはまだまだですが、歩いたり、水を飲み出したりしましたので、もう少し様子見しようかと思っています。

昨日もpolkaの話で、語り合えれば、少しは分かり合えるのにと書きましたが、いやそうかなという思いが昼間中僕の頭をよぎっていました。それは、「感じる」ということです。

当然ですが、分かると感じるはまるで違うものです。両方とも脳が介在していますが、その行く付く先は違っている場合の方が多いですね。

実際、人は視覚からの情報で、あるものの姿や形、内容までの80%程度を得ると言われています。残りの部分は、聞いたり、触れたり、匂いを嗅いだりして、そのものを理解しようとするわけです。じゃあ、そのどの部分というか流れの中で、「感じる」というものが発生するのかと・・・。個人的には、最も強い感覚「感じる」があった部分なんじゃないかなと思っています。

説明といった付随する情報は、時に人を惑わせ、誤った理解を生んだり、自分が初め感じた物とはまるで違ったものに変えてしまう場合があります。しかしながら、「感じる」そのものが正しいことだとは限りませんし、分かったような気持ちになるだけということもありますし、第一に生死に関わるものについては、充分にその説明を聞く必要があると考えています。

時々、「感じる」イコール「理解する」になったら、どんなに楽になるのになと思うことがあります。これは、何の説明も無しにコミュニケーションを取れてしまうことと繋がります。こうなると、言葉無しでも伝わることになります。

でも、もしそうなってしまったら、非常に生きにくい世の中になることは、全ての人が知っていますし、それを望んではいないはずです。ですので、分かり合えないぐらいがちょうど良いのかもしれません。

その上で、もし「感じる」と「理解する」ことが少しでも一致していれば、そこから大きな喜びへとなり、カタルシスへと変わっていくような気がします。話にまとまりが付きませんが、分かり合えるとか理解する部分を先ずは横に置いて、「感じる」ことをしていかなくちゃと、思った次第なのです。

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