2009年10月28日水曜日

「女殺油地獄」

この4、5日程、昼間は外出、帰ってきて写真展準備と何かと落ち着かない感じでしたが、昨日夜に、先週録画していた「女殺油地獄」(NHK芸術劇場)をやっと見ました。

「女殺油地獄」と言えば近松作品の中ではかなり変わったもので、人形浄瑠璃として初演、その後歌舞伎で上演されましたが、不評であった為、一旦お蔵入り、明治になるまで再演はされなかったそうです。その後、明治に歌舞伎として再演された後は、歌舞伎はもとより数多く映画化されたり、テレビドラマとしても放映されるようになりました。(潤色されたりしますが)

ごく最近では、これを原作とした「ネジと紙幣」が森山未來主役で舞台化され、仙台でも地方公演として行われたばかりです。こちらは未見ですが、演出・劇作が倉持裕さんですので、より奇妙にぐちゃぐちゃしたものになったように想像出来ます。

先週放映された「女殺油地獄」は、上方歌舞伎です。今年6月に東京・歌舞伎座で上演、片岡仁左衛門が「一世一代」(演じ納め)とうたって取り組んだ舞台でした。番組冒頭でのインタビューでは、この上演を最後に主人公である与兵衛を演じないとわざわざ宣言しているにもかかわらず、意外にもあっさりとその経緯を話した後、与兵衛という人物像や作品全体を非常にやさしい言葉で分析でもするように語っています。それは、逆に片岡仁左衛門の役者としての深さを感じさせるに十分なものでした。

僕はほとんど歌舞伎を見たことがありません。この歌舞伎も実は初見でしたが、映画や舞台で観たりしていて、ストーリーを知っていたこともあり、とてもすんなりと入ってきました。やはり、事前の経験や学習は大きいものです。

それにしても、自堕落で放蕩な男、与兵衛が、結局は借金のために隣の油屋の妻を殺してしまうと言う本当にどうしようもない話なのですが、片岡仁左衛門が演ずる与兵衛は何か憎めない悪党でもあり、時にかわいくも見えたりします。もちろん原作の良さもあるのでしょうが、やはり、役者の力量によるものが大きいなと再認識させられました。

日本には滅びの美学というか、死に対してもそのありように意味を持たせる(宗教観ではなく)傾向のように思います。この作品も最後の殺人をおこす場面が見せ所となります。与兵衛が凶行に及ぶまで、そして殺人を起こしてしまった後、フッと我に変える、その時々の表情の移り変わりは見事の一言です。また、油屋の妻、お吉が背をのけぞらせながら死んでいくのですが、その形が、まさに歌舞伎なんですよね。

それからこれは上方歌舞伎なので、ゆったりとした関西弁で進みます。その響きの心地よさも手伝ってか、後味の悪さが薄れ、なぜか物語としての美しさ(はかなさにも似た)を感じてしまいます。明治の時代から再演を繰り返し、現在へ繋がっている理由もそんなところにあるのかもしれません。

やはり、良いものは良いということです。でもそれは、伝える人や物や場がなければ、そこで止まってしまいます。だからこそ、良いものを良いと素直に認め、伝え、残すことが大事なんだと思います。

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