2010年11月18日木曜日

ボージョレ・ヌーボー解禁

ボージョレ・ヌーボー解禁


フランス産ワインの新酒「ボージョレ・ヌーボー」が18日午前0時に解禁になり、そのイベントの状況がテレビに映し出されていました。円高や直輸入の増加等で以前と比較するとその内容は幾分下火のような感がしますし、何かもう特別のものというよりもいつもの恒例の行事のように思えます。

僕自身普段からワインを飲む習慣がありませんので、殊更に待ってましたとばかりに飲もうという気は起きません。最近ではペットボトルやサイズを変えて、値段を下げ、誰でもが手軽に手に入るような売り方が見られます。これも、その時期でしか売れない事の現れなのかもしれません。

習慣や嗜好といった個人的な部分に関わるものは、なかなか変わらないものです。ましてやそれがその地域や環境から育ったものであるなら、それ以外のものを受け入れることは容易ではありません。必要に迫られてとか、それがないと生活に支障があるといった切迫した状況がある場合には、仕方なくそれに従うようになりますけど、大抵の場合は受け流してしまうものです。

アート作品もそんな中のひとつなのかと思います。特に写真作品については、誰もが制作出来るし、印刷物やポスターなんかで日常的に眼にしますから、余計購入までしたいと思う人が少ないのが現状です。また、美術館等で眼にする作品の数々は、大変高尚であり、芸術性を有するものとして、その場に行く前の前提条件として頭にインプットしている為に、鑑賞し、楽しむもしくは理解することで自己完結したいと思ってしまいます。もちろん、美術館にあるものをその場で購入は出来ませんから、その先の行動は起きるわけがありません。そんな文化習慣は、日本全国どこでも見られることで、これが当たり前であるわけです。

それでは、作品を制作する作家にとって、その評価はどうなるのかということになります。簡単に言ってしまうと、それは作品を購入してもらう事にあります。小説とかマンガとかの出版物(デジタルでも同様です)を、一般の方に買ってもらうことと一緒ですね。違っている点は、一般的に思うほどの金額で手に入らないことにあることです。その為に、作品に感動し共感を持って購入したいと考えていても、やはり待てよと躊躇してしまうのです。

その辺りは、僕自身がもっとも良く理解しているところでもあり、そのことが常に葛藤となっています。でもね、この境界のような部分をクリアにしていかないと、極端な話、作家として活動出来る人はいつまでたっても現れてこないとも思うわけです。

僕に出来ることは限られていますし、それはとても小さな力でしかありません。

だからと言って、ただぼんやりとしていても何も起きないことは確かです。

ボージョレ・ヌーボーでも飲みながら、考えてみますか。

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