2009年6月17日水曜日

傘がない

昨夜の関東地方でのゲリラ雷雨はすごかったですね。ニュースで流れる渋谷の様子は、まさにバケツをひっくり返したような状態でした。仙台は梅雨らしいシトシトとした雨でしたが、それでも傘を差して歩いているのはちょっと鬱陶しいです。

僕が外出するときは大抵両手が使えるようにとショルダーやトートバッグを持ち歩いていますが、雨が降ると傘で片手がふさがってしまい、それだけでテンションが下がってしまいます。だから、新宿とか地下街がある場所に出かけた時は、出来るだけ傘を使わないように目的地まで行くことを考えていました。もちろん傘は折りたたみで、カバンにすっぽり収まってしまうタイプです。

最近の折りたたみ傘は非常にコンパクトで邪魔にならないので、時々カバンに入れたつもりで出かけ、いざ雨が降ってきた時に入っていないこともよくありました。そのたびに駅やコンビニでビニール傘を買ってしまい、いつしか玄関の傘立ては一杯になってしまいました。それでも引越しの時に2、3本を残して処分したので、今はすっきりしていますが、たぶんまた増えていくような気がします。

だいぶ前振りが長くなってしまいましたが、傘で思い出すのが、井上陽水さんのファーストアルバム”断絶”に収録された”傘がない”と言う曲です。たしか、1972年ころに初めて聞いたと思います。僕はまだ中学生で、歌詞の意味は良く判りませんでしたが、それほど早熟ではなかった僕でもとても切ない気持になったのは覚えています。

その頃はフォーク・ブームでした。しかもほとんどのミュージシャンはテレビには出演しなかったので、彼らの生の声を聞く手段は主にラジオでした。特に地方に住む若い人たちはそうだったのではないでしょうか。
当時のフォークソングの多くはメッセージ性の強いものでした。”傘がない”もやはりそうだったと思います。歌詞は、若者の自殺のニュースから始まり、愛する彼女に会いに行きたいけど傘がない、それが今の自分にとって巷で流れる自殺のニュースよりも大事なことだという、一見利己主義でセンチメンタルな印象があります。

しかし、その時の社会状況を考えるとそれだけの歌とは思えません。急激な高度経済成長により生活の質が上がり、同時に周りは競争社会へと変貌し、人々の中にも徐々に不公平さが感じられるようになりました。そして、東大安田講堂事件を頂点に、若者の社会に対する考え方に変化が現れるのです。それが、”シラケ”であり、自身の関心も”社会”から”自分”へと向けられるようになったのです。

僕は“傘がない”と言う曲は、歌詞に使われるあいまいな言葉をメタファーとすることで、時代の風潮に対してのアンチテーゼとして発表されたのではないかと思う一方、単純に愛する人に対してのセンチメンタルな心情を歌った曲だとしても良いと思っています。


とらえ方は人それぞれです。

傘がなくても、雨に濡れても、愛する彼女に会いに行けば良いのです。
今がそんな時代だと思うのは、僕だけでしょうか。

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