2011年4月7日木曜日

温度差~頑張ろう-25

今朝の天気予報で、日中の気温が18℃程度まで上がると言っていました。例年の気温と比較すると5月中旬並みの暖かさのようです。日差しはそれほど強くなく、南風が温かさを運んでくれるとのこと。それでも、最低気温はまだまだ低いので、お年寄りを問わず、温度差で体調を崩されないといいなと思います。


東北沿岸や福島原発の状況をニュースで見ていると、仙台中心部と被害が甚大な地域とに感覚的に温度差を生じ始めているように思います。ガスの復旧も進み、おそらく今週中には中心部のほとんどの家庭ではライフラインを取り戻し、ガソリンも徐々に回るようになってきましたので、ようやく生活感を感じられるようになるかもしれません。

一方、避難所にいらっしゃる方々、別の地域へと避難し暮らされている方、地元に残りライフラインも復旧されず不便な生活をされている方は、まだまだ普段の日常とは離れたところにいます。おそらくは、テレビや新聞から得られる情報についても、まるで違った感覚を受けているように思います。

喉元過ぎれば云々という言葉があります。多くの人は苦しい、辛いことから逃れられた時に、安堵し、喜びの感情が生まれるわけで、それも致し方ないことなのかもしれません。でも、起きてしまったこと、特にそれが肉体的、精神的にとても辛く、苦しいものであればある程、決して忘れられないものなのだと思います。そう、忘れようとしたって、身体が、頭が、そして目の当たりにした眼が事実を忘れようとはしません。ただ、記憶は薄れていくもので、それがあるから生きていけるとも言えます。

現在、僕自身、元に戻りつつあるけれど、決して同じにはならないであろうこの状況にとても違和感を覚えています。不思議なことにライフラインがひとつずつ回復されるにつれ、その感覚は強くなり、それらが温度差という言葉に繋がっているように思えます。


人の思いはそれぞれ違い、その全てを理解することなんて不可能なのでしょうが、あきらめずにどうすれば良いのかを考えていくしかないのでしょうね。


考えていれば何かは生まれると思います。

焦らずに頑張りましょう。

2011年4月6日水曜日

新たな価値観~頑張ろう-24

現在新聞、テレビ等の写真や映像はカメラという機械によって切り取られた断片です。ですから、世の中に見えているものは、震災の爪痕の一部分でしかありません。そこで暮らす人々の思いや感情をカメラは捉えようとはしません。あくまでも、目の前にある事実を収めるに過ぎないわけです。


したがって、現地で直接惨状を目の当たりにした時に覚える感覚がそのまま表れることもないし、それ自体を想起させられるものでもありません。極端な話、記録のひとつひとつに過ぎません。

これは、すごく個人的な考えで言い過ぎているとの感はあります。実際、そうではないと思い、これまでもそして今もシャッターを切っている人々が多くいることも理解しています。そして、その中には、非常に個人的なものであったとしても、やはり単なる記録としてだけではない何かが備わっている、そう感じられるものもあります。

一方、アート、芸術としてのそれは、事実を表現する必要はありません。むしろ、目指している部分はもっとコアで、真実とでも言うべきものに近いように思います。作品の表層にあるものはそのヒントであり、一部であるから、むしろその内側に宿るそれらが重要になるのです。でも、真実というものはとても分かりづらく、見えにくい性格をしています。それゆえ、作家は悩み、苦しむわけです。

そして、生み出された作品の全てが受け入れられるとは限りません。むしろ、その逆の方が多いように思います。新たな価値観を見出す為には、過去のそれを見直し、深く追求する姿勢と逆にそれらを壊すほどのエネルギーが必要だからです。誤ったやり方や薄っぺらな考えは、見る人々にすぐ見破られてしまいます。

今回の震災は未曾有の出来事です。ですから、写し撮られた写真の意味もこれまでとは違ったものになるはずです。そして、多くの写真の中には、真実を写し撮ったものがあるかもしれません。そこが、偶然性をも持ちうる写真の力でもあると、僕は思っています。

そして、復興に対しても、新たな価値観が必要になってくるでしょう。

それを見つけ、行動を起こすことは、とても辛く、苦しいことなのだと思います。

ある意味、その行為そのものが、過去からの決別となってしまうかもしれないのですから。

時間が必要です。


焦らずに頑張りましょう。

2011年4月5日火曜日

いつかはきっと~頑張ろう-23

震災以来めっきりお客さんも減り、ほんの少し凹んでいます。昨夜から寝泊りを自室に変え、寝るまではpolkaがずっと膝の上にいるので一緒に暖を取っているような感じです。全然片付いてもいなく、ガスもない部屋ですが、気分は違うものです。いるべき時間にいるべき所にいることは精神衛生的に良いですね。


だから、ずっと避難所等で過ごされている方の苦労は余計感じられます。仮設住宅に移動出来たとしても、やはり苦労は変わらないのかなとも思ってしまいます。命あってのものだからと自分を納得させようとしていても、そうは簡単な話ではありません。

これから復興に向け、皆で一所懸命がんばっていかなければならないのは分かっていますが、先の見えない現実はその気力さえ押しつぶしてしまうのではと考えてしまいます。物事を前向きに捉えたいと願っていて、実際その通りに行動していても、うまくいかない時はあるものです。そんな時は、いつも「いつかはきっと」と自分を奮い立たせているわけです。かなり楽観的ですが・・・。

今日は、とてもグチっぽくて済みません。そう、いくらグチを言ったところで、僕は器用ではありませんから、「いつかはきっと」と思い続け、懸命に考えていくしかないのですね。写真が好きな方は沢山いらっしゃるし、生活に直接影響の無いアートに理解を示して下さる方も少なからずいますから。

そのような方は、是非、ワークショップや写真展へ参加して下さい。

目いっぱいサポートします。



その為には、先ずは頑張れと、自分自身に言い聞かせないと・・・。

2011年4月4日月曜日

“you live freely only by your readiness to die”~頑張ろう-22

昨日はお客さんも来ず、少し気が滅入りそうになってきたので、不謹慎と思いながらも、PCで映画を見てしまいました。その映画を見たいというより、エンドクレジットに流れる曲を聞きたかったのかもしれません。

その映画は「めがね」と言います。癒し系と称される映画なのですが、鹿児島県与論島にある浜辺の宿「ハマダ」を舞台とし、その日常が淡々と描かれているだけのものです。結構好き嫌いが分かれる種類のものです。

曲のタイトルも「めがね」ですが、映画同様にタイトルと内容に関連はありません。
歌詞はこちらです。


大貫妙子さんによる楽曲です。いつもの透明感のある声で、ごくさりげなく、おだやかで、美しいメロディーがついています。

歌としてはこちらです。


歌詞の中に、英語の部分があります。

“you live freely only by your readiness to die”


ガンジーの言葉の引用と思われる一節で、原文はyou がmanになっています。直訳すると、「ひとは死ぬ覚悟があってのみ自由に生きられる」となりますが、ガンジーが言葉にすると、そのものズバリのように聞こえてしまいます。


いささか大げさですが、人それぞれ、大なり小なり覚悟のようなものはあるのだと思います。でなければ、自分自身が物理的に無くなってしまう死をゴールに生きていく矛盾に、立ち向かっていけないからです。


そういった意味では、自分を全うすることが、その人を自由にすると解釈出来るようにも思えます。はかなくもこの震災で命を失った方々、そして残された家族や友人の悲しみを本当に理解することは出来ません。


だから、残されたもののひとりとして、自分を全うしていくしかないのかもしれません。




今日も無理せず、頑張りましょう。

2011年4月3日日曜日

今が本当の日常にならない為に~頑張ろう-21

今朝はほんの少しだけ寝坊をしました。といっても、何度か夜中に目を覚ましながら、その都度眠りにつくような毎日ですから、たまたまそのサイクルが変わって、本当に起き上がる時間が遅くなっただけです。


おそらく、多くの人たちは眠れない、寝たとしてもすぐ目が覚めてしまう、そんな夜を過ごしているのだと思います。肉体的な疲労は自然に眠りを誘い、その回復を取るような仕組みになっているはずなのですが、精神的な狂いが本来の姿を妨げていることは明らかです。

よく、信じていれば、違った薬を飲んでいても病気が良くなると言われますが、あながち嘘でもなく、それほどまでに精神が肉体に及ぼす影響は大きなものです。テレビ、メディアでは、連日悲惨で過酷な状況や情報が映し出され、伝えられ、驚愕や悲しみの感情が自然に表れてきます。それは、被災していない方にとっても、一瞬同化するような錯覚すら呼び起こしてしまうのではと思わせます。

人は環境に対して適応力があり、それゆえそこでの慣れは感情としての新鮮さを失わせ、強いては行動をも阻害する場合があります。震災から3週間を過ぎ、平時の落ち着きを少しずつ取り戻しつつありますが、津波の被害を直接受けていない場所でも、ライフラインはいまだ復旧していません。僕もそうですが、今ある日常に適応し、行動していくしかないわけで、それは明らかに今までとは違う行動になっているはずです。

それって、やはりすごく精神的には良くない状態で、そのダメージは徐々に蓄積され、知らず知らずの内に肉体へ及んでくるのかもしれません。しかも、その耐性は、年齢や性別に関係なく、子供やお年寄りが一律に弱いのかと言えば、そうではないように思います。


昨日も書いたように、今は我慢時なのでしょう。

そんな中にあっても、娯楽や趣味で少しでも気が紛らせることが出来るのであれば、そうした方が良いと思っています。不謹慎とかそういうことではなく、ストレスに対してのバランスとして、そして、今が本当の日常にならない為にも、そんな時間を大切にして欲しいのです。


これも、ギャラリーを開けている理由のひとつです。


今日も無理せず、頑張りましょう。

2011年4月2日土曜日

我慢強さ~頑張ろう-20

東北の人は我慢強い、粘り強い、昔からそう言われます。


震災後は、特にその言葉を聞く機会が増えたように感じます。冬の厳しい寒さに耐えしのび、無口に黙々として生きている、そんなイメージが広く世間一般に伝わっているからなのかもしれません。

僕もこの仙台で生まれたわけですから、東北出身の人になりますが、個人的にはそんな気質をもっているかなんて意識したことはありません。どこかで、周りとの距離を保つための壁というか殻というかそんな内向的な部分があるようには思っていますが、それだってただ厚く、硬いだけのものではありません。

与えられた環境や立場の中で、言葉少なく一所懸命に行動している姿は、それだけで良く頑張っているよねと思わせるところがあります。また、口も重く、自分の意思を行動として表わすことが苦手であるから、多少嫌でも、我慢してやるしかないんだと、無意識の内に言い聞かせているかのように見えるのかもしれません。

でも、信念とか主義とか大それたものではないにしろ、どんな人でも自分自身の価値感や考えに従って生きているはずです。結局、最終的な判断は、それによるのだと思っています。(人の意見や考えを無視するということではありません)それは、東北の人に限らず、どの地方の人にも言えることです。

震災は、ある意味、我慢強さや粘り強さの根本を僕たちに見せろと言っているのかもしれません。こんな途方もない代償を与えた上で。

じゃぁ、どうやってそれを見せるかということですが、やはり、自らの意思を持って毎日行動していくしかないないんじゃないかなと僕は思います。それは、実際に目に見える行動であっても、そうではない部分で表現しても、どちらでも良いのだと思います。

決して、簡単なことだとは思っていません。

そう、今すぐみんなでやりましょうよと呼び掛けて、ただ集まれば出来るほどたやすいことでもありません。



それでも、そういう思いの入ったひとつひとつが集まれば、きっと良い方向へ行くのだと信じています。それは、以前から話しているように、個と個を繋ぎ、少しでも大きな力へ変えることと一緒です。

その為なら、我慢のしがいもあるのでは、と僕は思うのです。


今日も無理せず、頑張りましょう。

2011年4月1日金曜日

伝えよう~頑張ろう-19


昨年3月に福島に行った時に撮った梅です。

着いた途端ににわか雨ならぬにわか大雪に見舞われたのですが、止んですぐに街を歩いていると、盛りは既に過ぎていましたが、何本か花をつけていました。

今年は梅どころではありませんし、これからの桜の季節を楽しめる、そんな雰囲気でもありません。それでも、季節は流れていて、いつものように花を咲かせるのでしょう。震災で倒れ、朽ちてしまった木は多くあるのでしょうが、残された木々は何もなかったかのように大地に根ざし、僕たちに変わらぬ姿を見せてくれます。

姿形の優美さや勇ましさ、色彩の華やかさといった外面の美しさだけに、人は惹かれるわけではありません。佇まいに憂いを感じたり、儚さを受けたりと、たとえ同じものに対してでさえ、その印象は変わります。その時々の自分の気持ちによっても捉え方は変わってくるものです。

人に対しても一緒ですね。やはり、同じ自然の生き物ですから。

違っているのは、様々な表現で伝える手段を持っているところです。人って、意図的であれそうでないにせよ、間違った見方をされたとしても、常に何かを伝えようとしているのだと僕は思っています。

そうでなければ、コミュニケーションやコミュニティーなんて存在しないわけですから。

人はひとりでは生きていけない、生きていないことは誰しもが分かっていることで、今はそれを強く意識出来る時だから、遠慮なく自分を伝えるべきなのだと思います。



今年は桜を見に行こう。

唐突にそんな思いが・・・。



今日からは19:00まで開いています。

無理せず、頑張りましょう。