2010年10月14日木曜日

チリ落盤事故救出の映像を見ていて。

チリの落盤事故からの救出の様子を見ていると、当たり前ですがひとりひとりに様々なドラマがあることを感じます。人は生まれてから現在までに様々な人と出会い、そして多くの人の支えによって生きています。よく「生かされている」という言葉を聞くことがありますが、まさにそうなのかもしれません。


約700mの地下の狭い空間に、70日あまり33人がいること自体、想像を遥かに越えた出来事です。今言われている世の中の閉塞感どころではなく、現実のものとして彼らはそれを感じ、耐えてきたわけです。救出にかかる期間は当初4カ月とも言われていました。そして救出には丸2日がかりの予定でしたが、おそらくはこれをアップするころには、全員が外に出ているかもしれません。

前代未聞の出来事であったことが、その救出に関してもより慎重になり、余裕ではないにせよそのような期間設定や予定を発表していたと思いますが、まぁなにより早まったことは良いことで、そして無事終了することを願うばかりです。

さて、画面から映し出される感動的な再会のシーンを見ていて、フッと、救出された33人はまた作業員として坑道に潜るのかなとか、後の生活保障も含めて事故発生の責任はどうなるのかなとか余計なことが浮かんできます。今後、様々な問題が個人的にも公的にも検討され、議論されていくのでしょうが、二度とあって欲しくないし、自分の身にも周りの人にもそのようなことが起こって欲しくないとの思いは共通していると思います。

人は大きな出来事に遭遇したり、体験をすると、自分の人生についての考え方が大きく変わると言われています。僕自身がそうであったかと言えば、あったと言えなくも無いわけで、ただこれが現状を形作っているかと言えばそうでもありません。芸術や文化を個人的にビジネスとして行っていくには、ある種の使命感や覚悟が必要になりますが、僕としてはあまり大袈裟に捉えたくはありません。それでも、続けなくちゃとは思っています。

まだ坑道の中にいるような気分ではありますが・・・。

2010年10月13日水曜日

凡庸な日常・・・写真として残すこと

凡庸な日常を美しい「断片」に変えるもの。


どこかで聞いたことがあるフレーズですが、写真はそういうものです。ここで言う「断片」とは、今その瞬間であり閉じ込められた永遠でもあり、時間や場所を記録として、または記憶として残されたものです。写し撮られたそれらは、まぎれもなく現実の目の前の世界であって、過去でも無く未来でもありません。(作為的に作られていなければですが)

このことは、世の中は様々な美しいモノがモザイクのように集まって、構成され、現在でのみ見ることが出来ることを意味しています。それは、人の笑顔であったり、生への喜びであったり、何気なく佇んでいる花であったり、あるいは人工的に作られた構造物でさえ内包しているものなのだと思います。

そして、それらを美しいと感じる心があるからこそ、その美しさは見出されるとも言えます。写真はカメラを介在し、あるがままの姿を写しだすだけではなく、自分自身を映す鏡でもあります。写実的である以上に、自己投影された非常に主観的なものなのです。

また、美しさの基準は、人それぞれであり、その範囲は無限大に広いものだと思っています。そう言ってしまうと、基準なんてことはまるで意味を持たないものになってしまいます。なので、実際、同じものを見て、その感じ方や伝わり方が全く違っていても良いわけです。

現在、ほとんどの人はカメラを保有していたり、携帯の機能であれ、何かを写し撮れる環境にあります。仮に撮影する行為やそこから表れるイメージに興味があれば、先ずは撮り続けて欲しいと思います。

なぜなら、日常は凡庸であれ、美しいものであり、その中には、自分自身も含まれているからです。

2010年10月12日火曜日

祝日の昨日、とても暖かな一日でした。

昨日は体育の日で祝日であったのと休廊日が重なったので、僕も何か人並みに休日を過ごしたような気分になりました。それでも、昼までは数人にメールをしたり、ひととおりの仕事らしきことをしていました。その後、一旦自室に戻って、お昼ご飯を済ませてから、ソファーに横になっていると、いつの間にか寝てしまっていました。


約1時間後に目を覚ますと、隣でpolkaも午後の陽ざしを受けながら丸まっています。2日振りに差し込む日差しが、祝日のゆったりとした時間を演出しているようで、まだぼんやりとしている僕をとてもおだやかな気持ちにさせてくれました。polkaも気持ちよさそうに一度欠伸をしてから、普段はいるはずの無い僕がそばにいても、甘えるでもなく、いつもと変わらぬ表情で僕をじっと見ていました。

さてと、今夜は木戸さんと会うんだよなと思いながら、ソファーから身を起こし、身支度を済ませて、少し早めに部屋を出ました。祝日の街中は人に溢れ、とても暖かいこともあって、この季節にしては珍しく半袖でいる人が多く、閉塞感漂う世の中がどこにあるのだろうと思うほど、秋の陽光を楽しんでいるように見えます。

そうこうしている内に、すっかり陽は落ちて、待ち合わせの時間になりました。以前から食事をしながらゆっくりと話しましょうと約束をしていながら、なかなかその機会が取れなかったのですが、ようやくそれを果たすことが出来ます。それほど大げさなことではありませんが、ずっと気になっていました。案の定、久々の再会は、時間を忘れるほどの楽しいもので、すっかり長居をしてしまい、木戸さんにもお店にも迷惑をかけたのではないかと思ってしまいました。(これに懲りず、またゆっくりと会いましょうね、お願いします)

その後、ギャラリーへ戻ると、一通のメールが来ていました。以前の会社で部下だった男性からのメールです。彼も会社を辞め、就職活動をしばらくしていて、その間に一度東京で会ったり、メールでやり取りをしていたのですが、ようやく次の職場が決まったとの報告を受けたのが9月の頭です。本社がドイツにある外資系の会社で、今、研修でドイツにいるとのメールです。

とても楽しそうな様子が目に浮かびます。彼も一歩踏み出しました。

さて、僕の方は・・・。

そんなことを考えながら、一日が終わろうとしていました。

2010年10月11日月曜日

しあわせの瞬間

幸せはその状況や状態では無く、その瞬間、瞬間に感じるものである。


誰の言葉だったかは忘れてしまいましたが、昨夜遅くある映画を見ていて、ふっと頭に思い浮かびました。絶望的な状況においても、人は感動し、その瞬間、幸せであることを感じるものです。むしろ、そんな幸せな状況がごく当たり前のようになった場合、案外、人はそう思わないのかもしれません。

ある人は自分の身を飾り、美しくあることで、またある人は美味しいモノを食べているその時に、そしてまたある人は自分自身では創造出来ないものに出会ったその時に喜びや驚きを感じます。殊更に幸せであると感じるよりは、むしろそこから得られる所有感や充足感、その他感動の類がそう思わせるだけなのかもしません。

つまりは、そういった物的なものや状況は、きっかけに過ぎないと言えます。しかもそれらは、見えないもしくは感じていないだけで、身の回りに転がっているもののように思えます。

この世は自分の思うようにはならないし、さまざまな困難や苦労を重ねながら生きて行くことが人としての宿命のように思われがちです。実際、現実的に生活をしていくということは、そうゆうものなのかもしれません。それでも、物事を悲観的に捉え、全てを訳知りのような顔をして、世の中こんなもんだよと口癖のように話している人でさえ、そんな幸せを感じる瞬間があるはずです。

僕は以前からそれでいいんじゃないのと考えていました。そして、その瞬間、瞬間を自分自身だけでなく、他の人たちと共有出来ることが出来たなら、すごいことだろうなとも思います。それは、家族の中であれ、グループであれ、決して形に捉われるものではありません。

もし、このギャラリーの中でそんな瞬間を見つけられたら、どんなに幸せかと感じます。

2010年10月10日日曜日

きっかけ

先週からようやく「1Q84」Book3を読み始めました。刊行されてすぐに購入はしていたのですが、何故か読み始める気にならずに、ずっと放っておいたものです。ノーベル文学賞の候補として何度かメディアに登場するようになり、急に思い出したわけではないのですが、そろそろ読んでみようかという気分になりました。


単純に僕のきまぐれに過ぎないと思うのですが、何かのきっかけとか気分って重要だと感じることがあります。もちろん仕事や人との絡みがあることは、気分だけでしたりしなかったりは出来ませんので、あくまで個人的な部類に関して言えるものです。

昨日は、Sha-gakuやStoryにも参加して下さった小出さんが見えられて、長い時間話をしていたのですが(もっぱら僕のグチを聴いて下さって有難うございました)、その中で「吐き出さなきゃダメだよね」との言葉が印象に残りました。彼は今、もっぱらi-phoneで撮影をしていて、その作品を集めたものを、先の芸術祭で発表を終えたばかりです。残念ながら、仕事の都合で僕は見に行けなかったのですが、以前から少しだけ見せてもらっていたので、おおよそは想像出来ます。まぁ、今までの作品世界とは全く異なったものなので、これも自分の中で何かきっかけがあったのだと思います。

まだ数カ月間しか撮っていないものを作品として提示することはすごく勇気のあることで、作品性云々は別にしてもその気持ちが潔いなぁと素直に感じます。これも吐き出さなきゃ・・・ということなんでしょうね。

作り手としては、際限なく自分の満足するところまで行うことが理想なんでしょうが、延々としてその行為を続けて行くことは強い意志と体力を要します。だから、ある程度区切りを付けて、発表する必要があるわけです。結局のところ、自分がもう満足だと思ってしまったら、その時点で終了するわけで、そうではないからまた続けるのですから、創造する行為だけに没頭していてもただ不毛なことなんだろうと思います。

作品は発表され見られることで、初めてその存在を明らかにし、人々の評価を受け、価値あるものになるわけです。作り手も然りです。創作ってそういうものだって気付いてしまえば、人前に晒すこと自体、何も怖いものではありません。

やっぱり、これもきっかけや気持ちが重要なファクターなのかなぁと思います。

2010年10月9日土曜日

アルゼンチンのメッシはやはり別格でした。

昨夜はサッカー日本代表戦を見ていました。対戦相手は南米の強豪アルゼンチンです。結果は皆さんご存じのように、日本の歴史的勝利と評され、各局がこぞってその結果を報道していました。確かに、親善試合とは言え、大したものです。ほんの少しだけ映し出された試合後のメッシの顔は、信じられないとばかりの表情でしたから、アルゼンチンにとっても信じられない出来事だったに違いありません。


それにしても、メッシは昨日のフィールドの中でも別格でした。彼がボールを持ち、ドリブルした瞬間、観客は何かが起こることと期待し、ワクワクしている様子が画面上からでも分かります。誰も止められないと言った形容は、決して大げさなものでなく、またどこに目が付いているのだろうとも思われるほど、パスセンスも抜群のものでした。

そんなメッシと一緒のフィールドで、肌でそのスピードやテクニックを感じることが出来た日本の選手たちはとてもよい経験をしたのだと思います。世界レベルを直に感じる機会はそれほどあるわけでは無く、選ばれた者しか体感出来ませんからね。

さて、スポーツの世界は、そんなレベルの差を数字や勝負事という明らかな結果として、晒されるわけだから、時に残酷なものです。アートの世界はどうでしょうか。すごく曖昧ですね。例え、コンテストで順位を決めるにしても、結局は相対的な評価なわけ(中にはそれぞれのポイントによる評価があるかもしれませんが)ですから、自分はそうは思わないという人がいても、それは当然のことです。

基本的に、写真も含めアートは他者との勝負事ではなく、自己表現を自分の内側で昇華し、そこから湧きあがる感情や感覚を他人である見る側といかに分かち合えるかだと、僕は思っています。そしてそれは、作家としてのエゴや思い込みによる押し付けであってはならないとも思います。

あぁ、メッシのような写真家がいないものかな。

2010年10月8日金曜日

ストレスフリーな世の中にはならないけれど・・・。

昨日気付いたのですが、明日からの週末は3連休の人が多いのですね。まるでそんな感覚がないのはちょっとまずいなと思いながらも、いつもと変わらない日々を過ごすことになりそうです。なんにしても、お天気がいいと良いのですが。


先日ギャラリー奥の部屋の件を少しだけ書きましたが、普段の日でもかなりの頻度でそこにいることが多いです。ひっきりなしにお客さんが来るわけではありませんから、暇を見ては資料を作ったり、企画を考えたり、時には写真集を見ていたりしています。

最近は、企画を考えていることが多く、アイデア・メモ的に思いついたまま一枚の紙に書いたりしています。正確には、PCに向かって特定のエクセル・ファイル上に箇条書きに打ち込んでいるのですが。ひとりブレイン・ストーミングですね。ひとりでやってもあまり意味が無いだろうと言われそうですが、僕ひとりしかいないので仕方ありません。

ブレイン・ストーミングの良いところは、先ず参加する人それぞれが自由であることです。結論や判断を出さずに、質よりも量、そしてそこから生まれてくるアイデアに便乗するように、あらぬ方向へと向かっていてもなんら咎められないことです。こんなことを話したら笑われてしまうだろうとか馬鹿げたことだとか、普段は自分自身でもつい押さえてしまいそうな意見を思ったまま言えるのがとてもいいなと感じます。

でもそう思うと言うことは、逆にこんな場が普段はどこにもないからですね。日常生活における家庭内や会社、地域なんかでは、どうしてもルールや慣習、その中でのポジションといったものがありますから、言いたくても言えないことばかりです。人は皆、意識無意識に関わらず、ほんの些細なことでもストレスを感じながら生きているわけです。

人が人である限り、ストレスフリーな世の中にはならないと思っています。ストレスをも楽しみとして生きることも、今の自分には出来ないだろうなと思います。それでも、嫌なこと困難なことに目をつぶり避けているだけでは、前に進めないことは現実としてあるわけで、やはり人として付き合っていかなければなりません。

今のところ、矛盾や不条理はあるものとして受け入れながら、やや楽観的と思われるくらいのスタンスでいようかと・・・。

けっして、あきらめや投げやりではなく。