2011年2月28日月曜日

捉われることなく

明日からの”Gallery Collection & Photo Showcase”に向けて、今日が最終調整の日です。特に問題もなく、準備が終了するだろうと予想しています。9割がた整ったギャラリー全体を眺めていると、今回はやや小ぶりかなとは感じます。それでも、写真好き、自らが撮影を楽しんでいる方々には、多くのスタイルの作品があるので、充分見応えはあると思います。


”Gallery Collection “側が、16×20インチサイズで13点、” Photo Showcase”側は、B2サイズからキャビネまで大小合わせて、約20点、ポートフォリオとして、約100点あります。個人のギャラリーとしては、多い方かなと感じますし、展示もそれぞれ趣向を凝らしていますので、作品制作の参考にもなるのではないでしょうか。

昨日行われた東京マラソンでは、市民ランナーが日本人トップでゴールし、世界陸上の切符を掴んだようです。プロ、アマの境界やキャリアや環境に捉われず、それぞれが自身の意思や思いを体現することは、スポーツの世界だけではありません。むしろ、体力といった、ある程度持って生まれたモノ以外で勝負出来る魅力が写真にはあります。

まだ見ぬ原石はどこかで埋もれ、いつも生まれようとしているのです。それをどこかで自分自身が押さえつけてはいないかと、写真を撮られている方々にこうして実際の展示という目に見える形で僕は問いかけています。

決められた通りの道筋に従って、すんなりと歩むことはそれはそれで良いことです。でも、そんなマニュアルやシステムに沿っていけるほど、生きる道は単純ではないことを、誰もが知っています。そして、その道は険しいより、楽な方が良いに決まっていますし、実際多くの人はそうなりたい、そうなれるように目の前のごたごたを日々対処して過ごしているわけです。僕自身もそうです。

でもね、可能性は誰にでもあり、表現の世界では一切捉われることなく誰もが自由であるべきです。日々ままならぬ不条理に翻弄されながら、唯一自分自身を表現出来る手段としてカメラを手にした方々は、まずはギャラリーで作品に触れてみて下さい。今回の写真展も楽しさや可能性が一杯の作品たちで埋め尽くされています。

そして、もし、それらに、何か感じ、そこから刺激を受けたのなら、一旦消化してから、今度は自分自身で行動してみて下さい。刺激はいっときで、すぐに忘れてしまうものですから。

それとも、あなたはまだ躊躇し、楽な方へと導かれてしまいますか。

2011年2月27日日曜日

話が長すぎると思う今日この頃

2月も後2日で終わります。今日と明日とで”Gallery Collection & Photo Showcase”の展示も終了し、皆様へお披露目することとなります。今日は、小出さん、永井さんの二人の展示を予定していますが、僕もどのようになるか分かりません。


2人の場合は、すでに数多くの展示経験があり、今回は多くの点数を展示するわけではないので、まぁ僕としてはお任せ状態です。展示される内容が分かっていれば良いので、その点ではあまり心配はしていません。

それにしても、今月は忙しくもなく暇でもなく、その割にはゆっくりと考える時間が少なかったように思えます。時間はたっぷりあるはずなのに、目の前の事柄を優先してながら、他の事項も脇目で見ながらが多かったので、そうなってしまいました。結局は僕自身の不器用さに起因しているのだと思います。

会期準備中でもあり、写真を見せに来てくれたり、先の企画に沿ったワークショップを個別にしていたりと、そう多くはないのですが、自由になる時間は少なくなってしまいました。人と話をしていると、僕自身も夢中になってしまい、ついつい2、3時間が過ぎてしまっていたりして、ちょっと余計なことを話しすぎたなと反省しきりです。

でもね、これも少しずつでも集まってくれている人への感謝の態度なんです。元来、僕は話ベタ、文章ベタで、いわゆる人に物事を伝える、話すことがもっとも苦手なタイプで、今でも出来れば避けたいくらいなんです。人に感動や思いを伝えるにはなんてことをあからさまに言っている人間がこんなことを話しちゃいけないのですが、実際はそうなんです。だから、僕も来て下さる人と同じように悩み、幾分苦しみながら考え、そして出来るだけのことを伝えなければならないと思っているわけで、その結果として伝えるための時間が必要になり、いつも長めになってしまうのです。

難しいことや感覚的な話はあまりしません。より具体的なことを、自分自身が理解出来ることを前提に話しています。分からないことは分からないとは言いますが、けっして考えていないわけではありません。ふとしたきっかけで分かる場合もあるから、分からないまま残し、そうだと思えた時に言葉にしたりするので、時々脈絡のないことにもなってしまいます。

人が見ると、何かとりとめの無い話をしているように感じるかもしれませんが、これが今の僕の流儀のようです。変化はしていくのでしょうが、根本は変わらないと思います。

2011年2月26日土曜日

「入れ物」

今朝、残り少ないチューブから歯磨き粉を歯ブラシへ絞り出している時、フッと僕のチューブにはどれほどの残りがあるのだろうと思いました。決して悲観的に、感傷的にそう思えたわけではなく、とても冷静に意識していました。


朝早くからそんなことを考える人はあまりいないのでしょうが、日常的に普通にしている行動に対して、今までとは違った感覚や考えが及ぶことは珍しいことではないし、誰もが経験していることだと思います。しょっちゅうそんな風に感じていると、自分でも不安になるのかもしれませんが、そんな状態ではありませんから、単純にそう思っただけなのでしょう。

歯磨きのチューブの例えはあまり良くないですが、よく懐が深いとか器が大きいと表現するように、人それぞれ「入れ物」を持っているように言われます。その「入れ物」は歳を経るにつれ、学習や経験といった後天的に得られるものと先天的に持っている才能や感覚の変化により、大きくなったり小さくなったりするものです。

元々全ての人にはある量の「入れ物」はあるわけで、むしろ重要なのはその中身なのでしょうね。また、受け入れる度量といった部分はその中身以上に、経済的、心持ちとしての余裕のなせる所が大きいのだとは思いますが、ただそれだけでは人に評価されるものでもありません。

僕自身はと言えば、中身が濃縮タイプで、薄めながら小出しにしていければ良いのだけど、そうはいかないし、出す度に自然に補充出来るわけでもありませんから、機会ある時、そしてここぞといった時に勇気を出して絞り出していくしかありません。

見た目は抜け殻のようでも、不思議とチューブからはとめどなく中身が出てくる、そんな「入れ物」だったら、どんなにか良いのにと思ってしまいます。でもそうなるには、まだまだやるべきことがたくさんあるのだということなのですね。文句なんか言ってる場合じゃないよと。

2011年2月25日金曜日

停電があったのだぁ・・・。

今朝早く1時間ほど工事の為停電があったようです。ギャラリーと自室のあるビル全体がそうなるとの掲示があったのが、3週間ほど前の話で、毎朝のようにそれを目にしていたにもかかわらず、すっかり忘れていました。停電になって困るものがほとんどないし、まぁPCは落としておかなきゃなぐらいの気持ちでした。


案の定、ギャラリーにある2台の内、1台は電源が落ちていました。もう一台はノートだったので、バッテリーが働いてくれて動いていました。いつも電源を切らずに、常時ネットも繋がりっぱなしにしておくことはあまり良くないこととは知りつつも、ずっとそうしています。

それは、サイトでの販売や企画に参加されている方々の多くは、申込みや問い合わせが夜間遅くにメールで来る場合が多く、その確認の為でもあります。今は、自室にはPCが無いので、携帯に転送されたものを見るようにしています。その場での回答が必要な場合は、ギャラリーへ降りていって返事をしますが、大抵は翌日早い時間に送るようにしています。

メールの利点は、時間問わずというところと、間を置けることだと思います。瞬時に判断し、無意識のうちに話をしてしまっている電話とは違い、自分自身の意識や考えを言葉に置き換える作業が入ります。言葉を選びながら文章を組み立てていくと、意外にあの時話した内容が違った表現になってしまっていたかもしれないと気付かされます。元来電話が好きではない僕にとっては、単純に僕自身の反応と向き合える間が必要なだけなのかもしれません。

その場の勢いで言葉や行動に起こすことも時には必要です。それでも、僕はそこまでの考えや検討といったものを一旦客観的に言葉としておこす作業が大切なことだと思っていて、気が付くとそうしているようです。

さて、今日もこれからメールを何通か出さなければなりません。定型的な内容、そうでないものいくつかありますが、その中に新たな発見があるかもしれません。

大げさですが、普段から決まり切った毎日と考え、流れに乗っているだけでは、単純に死に向かっているだけのように思います。どんな人にとっても、一日として同じ日はないわけで、例えばメールひとつにしてもそれは言えることです。一通のメールがその人の生き方を変えてしまうことだってありますし。

生活、「生を活かす」ことは、誰にでも与えられたものですが、自らそうすることを意識していないと感じられないものなのだと思うのです。

2011年2月24日木曜日

ビビンバやクッパのように

“Gallery Collection” 側の展示は昨日の内に終えました。作品点数13点と若干少なめですが、見応えは充分あると思います。満腹にはならないけど、程良く美味しいものを少しずついただける感じですね。もう少し見てみたいと思えるような感覚になってもらえればいいかな。


一方、奥の部屋で予定している”Photo Showcase”側は、江口さんの展示のみが終了し、まだほとんどの壁は白い状態です。江口さんの展示は、個展”Beyond”から抜粋し、額装や構成を変え、週替わりで、新作は前半、後半の2部構成で展示されます。毎週来ていただけると、それぞれに違った面が見えてくるのではないかと思っています。

その他の方は過去において展示・発表経験も豊富ですし、それほど心配はしていません。週末に一気に展示されていくといった感じです。今のところ、小出さんが江口さん同様に2部構成で展示変えを行う予定です。また、佐久間さんの展示は、本当にショーケースっぽい感じになる予定です。詳細は見てのお楽しみとしますが、今日そのレイアウトを行います。若干設置に不安な部分があり、どれほど思い描いたように出来るかどうかが展示のポイントになります。先ずはやってみてから、です。困難にぶつかったからといって、ただ避けていてもつまらないですから、気持ち的に。

今回の写真展は、著名な写真家と地域を中心に活躍されている写真家のごった煮の様相になりそうでもあり、そのあたりは僕にとっても新鮮かつ刺激的なものです。ビビンバやクッパのようにまぜこぜになりながら、それぞれの個性が引き立ち、良い相乗効果が現れてくれたらいいなと期待しています。

見る側にもその辺りを楽しんでもらいたいと思っています。

2011年2月23日水曜日

ぼちぼちと展示作業をしています。

撤収と同時に”Gallery Collection & Photo Showcase”の展示も始まっています。Gallery Collectionでは、以前の写真展とはサイズや額装のスタイルが違っていますので、先ずは額装から始め、順に展示をしている感じです。


最近の写真展を見ていると、やたら作品の大きさばかりが目立ち、何かそれだけで存在感を出しているようなものが見受けられます。現代アートとの関連性があるのですが、中にはどうしてこんなに大きく伸ばしているのかと考えさせられるタイプの写真も実際あります。

「見せる」といったことを検討する場合、作品のサイズは大きな要素にはなります。しかしながら、意味もなく大きくすることはないわけで、そこには必然性が無ければなりません。理由はさまざまで、例えば展示構成として必要であったり、作家の世界観を導き出す為等が考えられます。

写真作品の多くは、作家自身がプリントするケースが多いのですが、大判になるとそうはいかなくなり、それ相当の設備や技術を持った業者が行います。絵画や彫刻といった他のアート作品とは違い、全てを自らで行わなくても作品として成立してしまいますので、その辺りの部分が一般の方にとって芸術性という点で少し違和感を覚えるのかもしれません。

Gallery Collectionに展示される作品は、用紙で言うとA3程度のもので、やや小ぶりになりますが、全て作家がプリントしたものになります。プリントはその技術はもとより、作家自身のセンスが問われるものです。一部の著名な写真家の方は、自身のプリントより、信頼出来るプリンター(マシンではありません、職業です)へプリントを依頼している程ですから、作家にとって非常に重要なものであるわけです。

目に見えるものはプリント品ですから、当然の話です。そこに至る工程は言わば裏方の処理で、見る人にとっては必要の無いことなのだと思います。作家によって、プリント方法はさまざま、技術以上に個性的で、いわゆるブラック・ボックスのようなものです。

暗室という真っ暗な部屋でプリント作業を行っていますから、まさしくその行為自体がブラック・ボックスの中で行われているのです。しかも、浮かび上がってくるイメージは、自身のブラック・ボックスから発生しているものであったりするわけで、二重、三重の闇の中から作品となって出てくるのです。

そんな暗闇から生まれ出る一部の作品たちが、アート足り得る写真作品として陽の目を浴びることになるのです。多くの賞賛や少なくはない非難と共に。

2011年2月22日火曜日

昨日の画像

昨日はブログでは初めて画像だけを載せましたが、書くことが思いつかなかったわけではありません。画像は、誰もが想像が付くように、壁に展示されていた作品撤収の途中を撮影したものです。床に折り重なったものが、この作品を構成していたものの残骸です。


作品は、雨の日のビルからガラス越しに街を撮影したもので、焦点はガラスに合っているので、背景となる街なみはボケたものになっています。一枚のネガをスキャニングし、展示大に拡大したものを、A3サイズに32分割、それぞれをプリントし、ボードに貼り付けたものを壁面にタグで取りつけて、ひとつの作品としたものです。約170×240cmという非常に大きな作品です。

始めから、撤収時にこのように破壊する予定ではありませんでした。使用したタグが予想以上に強かった為、A3のボードを一枚一枚壊しながら取らざるを得なくなったのが本当のところです。参加者と2人でどうしようかと話し合いながら、止むなくそうしたわけで、本来はしてはいけないことなのかもしれません。(たとえ壁がボロボロに痛んでしまったとしても)

作品一点一点には作家の思いが詰められたもので、仮にそれ自身が作品を形づけるひとつのパーツに過ぎなくても変わらないものだと思っています。撤収作業は、一旦見知らぬ人々に姿をお披露目(晒された)後、やっと安心出来る場所に戻ってきたとの安堵のような感覚ともう終えてしまったねとの寂しさを同時に感じる時でもあります。素直にご苦労さんといった気持ちもありますしね。

それを破壊してしまうわけですから、僕は参加者のその決断に感謝するしかありません。展示はライブであり、その場、その時間でしか感じられないものと以前から話していますが、終わってしまったからといって、決して壊されて良いものではありません。同じように再生は可能ですが、そういうことでもありません。

だから、昨日の画像は、タイトルとは別に自戒の意味もあるのです。それが、何も書かなかった理由のひとつでもあり、画像のみを載せることで、過ぎてしまった、何もなかったことのようにはしたくなかったのだと思うのです。