2009年7月10日金曜日

オキーフとスティーグリッツ


七夕に因んで第3弾ではないですが、著名な芸術家同士のカップルって結構いますよね。その生涯や生き方が後に映画や本となって発表されてもいます。

今日はそんな本の中から、一冊紹介します。

“ジョージア・オキーフ 崇高なるアメリカ精神の肖像”
ローリー・ライル著  道下匡子訳 PARCO出版 1984刊行

この本はアメリカを代表する女流画家であるジョージア・オキーフの伝記です。上下2段組みで約380ページある大変長い一冊です。

ジョージア・オキーフと言えば、花の写実的なイメージを拡大抽象化し、現実から非現実へと変えてしまうような作品や動物の骨を描いている作品を思い起こします。その独自の世界が僕はとても好きで、以前写真として表現出来ないかと花ばかり撮っていた時期がありました。

ジョージア・オキーフの生涯の伴侶であったアルフレッド・スティーグリッツは、近代写真の父とも称されるアメリカの偉大な写真家です。ニューヨーク5番街291番地に開設した”291ギャラリー”は、写真のみならず多くのヨーロッパ前衛芸術を紹介し、アメリカの多くの芸術家に影響を与えました。

オキーフとスティーグリッツの初めての出会いは1907年ですから、オキーフが20歳、スティーグリッツが43歳の時です。スティーグリッツは当時すでに写真家として確立していましたし、20歳のオキーフには全く興味を示さなかったといいます。

1916年1月にオキーフが友人に送ったいくつかの木炭画を、友人がギャラリーへ持ち込んだ時から状況は一変します。スティーグリッツはその木炭画を見た時に、”とうとう女の画家が出現した!”と劇的に叫んだと言われています。

二人の関係の素晴らしい所は、お互いに他方を支配すること無く、ましてや男と女という世間で言われる役割から解放し、常に創造的に成長をし続けている点だと思います。

上の画像の本は、オキーフが死去した1986年に第二刷として出版されたものです。カバーの端々はすでに擦れ切れかかっていますが、装丁もとても素敵です。

裏表紙にある二人が顔を見つめあい微笑んでいる姿は、その年齢差を感じさせないほどの若さと固い絆のようなものを感じます。(いじわるですが、敢えて載せません。)

2009年7月9日木曜日

作品のクオリティーと力


一昨日から、銀塩プリントスペースの手前に、デジタルプリント作品を額装して展示しています。額は今回の為に準備した木製・黒の特注品です。

白いテーブル上の壁面に鎮座する姿は、とても品が感じられます。

デジタルプリント作品は、壁5面に渡り大小280点が直に貼り付けられています。その並びもランダムで撮影された時代の混乱やエネルギーを体感出来るようにとの思いがあります。

一見して乱暴に貼り付けられている作品群も、一つ一つの作品を捉えるとそれぞれのクオリティーが非常に高いことが、額装してみるとよく判ります。そして、奇をてらわないシックな感じの少し太めの木製枠が全体のトーンを締めますね。

やはりプリントの完成度の高さが作品全てに寄与していることは確かですが、現在のような展示で表現されている写真展としてのテーマ性を除いたとしても、良いものは良いという証でしょう。

一見すると誰でも撮れるようなスナップ写真の数々が、独立したアート作品として充分に力ある存在であることに改めて驚いてしまいます。

アートとは言葉以上に伝えられる何かを持っていると思います。

その何かは人それぞれであって良いとも思っています。

そして、何よりより多くの方にそんな心の揺れを感じてほしいと願いながら、今日もギャラリーの扉を開けます。

2009年7月8日水曜日

今日はどんな感じ?

朝からどんよりと曇った梅雨空です。

昨日、七夕の話を載せましたが、ギャラリーのすぐ目の前にあるオブジェを見ていて、あれっと思いました。

上の画像が実際のオブジェです。後ろ側に湾曲した川を連想させるベンチ状のオブジェが作られています。

近くの人たちは、信号待ちの間にそこに座って、待っていたりしています。

どうです。何か、見つめあう二人の立像に見えませんか。
そして、後ろに川と言ったら、やはり天の川でしょう。

オブジェには何もタイトルらしき碑もありませんが、これは織姫と夏彦をモチーフにしているものとしか思えません。仙台に越してきて毎日のように眺めていましたが、そんな感じに思えたのは今朝が初めてでした。


抽象化されたオブジェは、一見して形そのものでテーマやモチーフを連想させるものもありますが、その多くは理解が難しいものです。作家は自分自身の衝動や感情を作品に内包させ、表現として形作ります。それは、その時代性や流行にも左右されます。

そして見る側は、オブジェ全体やディテールを見つめることで、自分自身と表現された物との間にある種の共鳴を感じることが出来ます。

でも、アート作品とかを見て、何を表現しているのかがよく判らないことってありますよね。実際、僕もよくあります。そんな時は先ず自分の直感や感覚を信じるようにします。それが後日間違った解釈だったと分かっても、特に恥ずかしいとは思いません。

何故なら表現する作家もそれを見る側も、アートという範疇では全て自由だからです。
だから、自分とは違う解釈に理解出来る部分があれば、そう思えばいいし、それが経験と知識になるのです。

よく芝居を観た後の感想として、1.内容も構成も理解できて面白かった、2.内容も構成も理解できたが面白くなかった、3.内容も構成も理解できなくて面白くなかった、4.内容も構成も理解できなかったけど面白かった、と大抵この4つにまとめられます。また、部分的に捉えれば、その中のいくつかを同時に感じます。

僕はこれらを言葉として想起するに、順に共感、落胆、困惑、衝動と思っています。
そして、それらの感情がせめぎあいながら、最終的に面白いとか興味があるとか好きだとかの感情が芽生えてくるのです。

上の画像に写されたオブジェは、実は全然違うものかもしれません。

でも今日はそんな感じなのです。
だからそれでいいんじゃない!と、僕は思っています。

2009年7月7日火曜日

7月7日 七夕

今日は7月7日、”七夕”ですね。

仙台の七夕祭りは全国的に有名ですが、旧暦の7月開催ですので、8月6、7、8日の3日間に行われます。

今では七夕祭りは商店街のイベントのような形になっていますが、起源は日本古来の豊作を祖霊に祈る祭であるお盆に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)などが習合したものと考えられているようです。

七夕で誰しも思い出すのが、織女星と牽牛星の伝説ではないでしょうか。いわゆる愛し合う織姫と夏彦が年に一度だけしか会うことが出来なくなったと言う、なんとも哀しい物語です。

物語のあらすじは、織姫は天帝の娘で大変機織の上手な働き者でした。一方夏彦も牛追いとして働き者で有名でした。二人は愛し合い、そして天帝の許しが出て、晴れて夫婦となったのですが、その生活があまりに楽しいため、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離し、年に1度、7月7日だけは会うことをゆるされたという話だったと思います。

今ではとても考えられないことですね。それが伝説の伝説たる所以なのでしょうが、二人で駆け落ちをしたり、その末に心中なんて所まで話を拡げていないことがかえって後年まで残っている理由なのかもしれません。

古くからあるこのような類の物語は、基本的にその結末は残酷なものが多いです。それは洋の東西を問わず共通していますし、ギリシア神話でも悲劇と称されるものは、内容はとてもおぞましいものです。

しかし、それでも綿々と現在まで上映されたり、語られたりして、感動や共感を得ることが出来ることを考えると、実は人間はそれほど進化していないのかもしれません。殊更、男と女が繰り広げる愛憎劇については、人に対しての想いや純粋さ、嫉妬や猜疑心といった感情にまつわるものは、時代性はあっても本質的には変わっていないと思います。


何はともあれ、今年は来月28年ぶりに仙台七夕を観ることが出来ます。商店街のイベントであっても、暗い世の中を少しでも明るくしようとする動きは楽しいことです。

今夜は雨が降ることのないよう願いながら、ほんの少し子供に戻って、ジミニー・クリケットの”星に願いを”を聞いてみようかと思います。

2009年7月6日月曜日

横木安良夫ワークショップ&トークショウ報告!!

7月4日(土)、5日(日)に開催された”横木安良夫ワークショップ&トークイベント”が無事終了しました。

4日の午前中から会場設営を行い、椅子を並べながら、少し窮屈かなとか後ろの人はちゃんと見えるかなとか色々と考えてしまいました。これまで僕は芝居にしろこのようなワークショップにしろ常に見る側の立場でしたが、それでもそれぞれの座席の設定とかは良く見ていた方です。
でも、やはり気になります。本当は、途中から階段状になればベストなのですが、劇場ではないのでそこまでは出来ません。
後ろに座った方、済みません。少し見づらかったかもしれません。

午後から横木さん、福川さんを迎えて、プロジェクター設定。少し時間を取られましたが、プリンターは数度のテストでOKと、ひとまず安心しました。正直セッティングはぶっつけ本番でしたので、かなりドキドキものでした。

開場前からすでに数人の御来客があり、いよいよ始まるんだと緊張が高まり、一人とても落ち着かない気分でした。お二人は常に講演されているので、余裕ではありましたが。

いよいよワークショップが始まり、プロジェクターに映し出されるイメージが、CRECO(クリコ)により、徐々に変化していく様子がはっきりと分ります。いままで、横木さんのHP上で拝見していた内容がとても分り易く実演されていきます。
会場の皆さんもメモを取られる方もいらっしゃり、真剣な眼差しで見られている様子が手に取るように感じます。

プリントまで終え、ワークショップがつつがなく終了後、福川さんとのトークショーが始まりました。お二人のアート写真に対しての含蓄のある言葉や真摯な姿勢に思わず頷いている自分がありました。福川さんがおっしゃっている”アートリテラシー”と言う聞きなれない言葉が、一つのキーワードでしたね。

僕の解釈では、物や情報が氾濫し豊かな時代となったけれど、どこかで満たされない欲求や閉塞感を解消する手段として、アートにそれを求めても、その経験・学習がなければ本当の理解や共感を得ることが出来ない。その為に写真集や写真展を数多く見たり、作品について考えること(自分自身に投資する)がアート写真を理解する方法であり、作家もそのために明確なコンセプトやテーマを打ち出し、作品を発表する必要があると言うことだと思います。

トークショーも終了し、東京からおみえになったAYPCのメンバー方とも合流し、オープン記念も兼ね、懇親会を行いました。懇親会会場内でも、近郊から見えられたアマチュア写真家の方々に対して、持ち込んできたポートフォリオをお二人がレビューして頂いたりしている姿を拝見していると頭が下がる思いでした。

そして、参加して下さった方々のほとんどは、今まで得られなかった経験や言葉を聞き、満足されたのではないかと思っています。

不慣れな進行と不手際が多々あったと思いますが、横木さん、福川さんをはじめ会場に来て下さった皆さんのおかげで何とか無事行うことが出来ました。

本当に有難うございました。

今後もワークショップ、イベントを企画していきますので
宜しくお願い致します。

2009年7月3日金曜日

1982 Part2

1982年Part2です。

その頃、付き合っていた女の子と始めて行った芝居が、オンシアター自由劇場の"もっと泣いてよ、フラッパー"だったと記憶しています。今思えば、これが観劇の始まりでしたね。場所は銀座8丁目。地下1階から4階までが日本一のおもちゃ屋で、そのビルの8階にある博品館劇場でした。

オンシアター自由劇場は、当時ストレート・プレイともミュージカルとも違い、劇団員自らが楽器を演奏しながら、物語を作っていく方法の演劇を行っていました。代表作は、後に映画にもなっている"上海バンスキング"でしょうね。

劇団員はそうそうたるメンバーです。串田和義、吉田日出子、大森博、真那胡敬二(当時は真名古敬二)、小日向文世、笹野高史(敬称略)等で、今も芝居はもちろんそれ以外でも活躍されています。小日向文世さんは当時、二枚目役が多かったように思います。

また、今年映画”おくりびと”に出演した余貴美子さんも”上海バンスキング”のリリー役(バクマツ演じる笹野高史さんの恋人役)で、一時劇団にいましたね。今もおきれいですが、その頃はとてもチャーミングでした。

この頃からオンシアター自由劇場も、六本木に劇団で構えていた自由劇場からより大きな劇場で行うようになります。1989年に串田和義さんがシアターコクーンの芸術監督に就任してからは、1996年の解散まで定期的にシアターコクーンで公演していました。一人ひとりが個性的で魅力的だったこともあり、とても時流に乗った劇団の一つだったと思います。確か、野田秀樹さんの”夢の遊眠社”が、駒場小劇場から本多劇場や紀伊国屋ホール等の商業ホールをメインにしていったのもこの頃だと思います。

80年代を思うと、世の中は色々な意味で拡大していく反面、軽薄短小の流れもあったりして、なんかすごいカオス状態の中を勢いだけは保ちながら、前を見ることだけを考えていたような気がします。

その時一緒に観に行った女の子とは翌年の初めに別れ、本当に身も心も寒かったことを、これを書きながら思い出してしまいました。


明日、明後日はいよいよワークショップです。
更新出来ない可能性はありますが、その様子は別途掲載予定です。

2009年7月2日木曜日

1982

マイケル・ジャクソンさん死亡のニュースが流れてから、連日ワイドショーでは関連する話題を放映しています。80年代の音楽シーンを一気に変え、全世界にその存在が認められた最後のアーティストとも言える人ですので、当然と言えば当然ですね。

スリラーがヒットした1982年は、歩いていても街じゅうで流れていたように思いますが、はてその頃は何をしていたのかなと思い出してみました。

当時僕は東京に出て1年経った頃で、映画ばかり観ていたと思います。その頃はTSUTAYAもありませんでしたから、もちろん映画館に行って観ていました。大学が山形だった僕は、キネマ旬報を読みながら、東京に行ったら絶対に岩波ホールに行ってやると思っていたのですが、実際はロードショー館ばかりを毎週のように通っていました。

1982年に日本で公開された映画を調べてみると、洋画では”ブレードランナー”、”ET”、邦画では”蒲田行進曲”が目につきました。特に”ブレードランナー”は、あまりSF映画が得意でない僕でも面白かったですね。当時の記事を見ると、”ブレードランナー”は、アメリカでも日本でも、封切りではそのSF映画らしからぬ陰鬱な雰囲気が災いし、早々に打ち切られたそうです。その後もカルト・ムービーの扱いを受ける一方で、ビデオ化されたのち、評価が見直され、今やSF映画の名作と言われるまでになりました。

確かに、描かれている近未来は非常に退廃的で、登場人物も勧善懲悪ではなく、一種フィルム・ノワールっぽい感じがします。そしてこの映画の最大の特徴は、ビジュアル・イメージの卓越さと視覚効果の美しさではなかったかと思います。いま観ても感心させられます。


一方、邦画の”蒲田行進曲”は、舞台から小説、そして映画化されたものです。つかこうへい主宰の劇団つかこうへい事務所の代表作の一つですね。本来、つかこうへいさんの芝居には台本が存在しない場合が多く、つかさん自身が口伝いで役者に演出を行います。この”蒲田行進曲”は、一旦つかさんが小説化されたものを、自ら映画用に脚色して制作されています。蒲田にはかつて松竹キネマの撮影所があり、そこが舞台になっています。僕の以前の会社は、蒲田にあり、東口からまっすぐ行ったところにキネマ通りと言う道があります。毎日そこを通っていましたので、なんとなく縁を感じます。

この映画では、自虐的なヤスを演じた平田満さんがとても印象に残っています。(舞台でも解散公演で演じていました)平田さんとは3年前に両国付近の本当に小さな中華料理店で偶然見かけたことがありましたが、とても普通のおじさんでした。

今は映画館で映画を観る機会は年に数えるほどになってしまいましたが、真っ暗の中座席にもたれかけ、巨大なスクリーンで観ていた頃が懐かしく感じられる今日この頃です。

そう言えば、当時はまだチケットを購入するのに並びましたからね。