2014年4月13日日曜日

格闘

自分で自分の世界を狭く、浅くする理由のひとつとして、その世界であれば、少なくても自分に理解を示してくれる、存在を認めてくれる、或いはその場にいること自体で心安らかに安心出来ることがあります。

それは僕自身とても理解出来ることで、自分にとって充分かつ必要なものであれば、その世界にいることは正しいことなんだろうと思います。例えば、これが仕事や生活に直接関わることであればなおさらのことです。

そして、人はみな誰かに認められたい生き物で、もちろん良いようにというのが当たり前にある感情です。しかしながら、社会というのは、その人となりや持っている能力、経験や履歴などさまざまな要素によって、自然の内に序列化され区別されるのが普通で、社会の大小によらないものなのです。

こうした階層化した世界の中で、それ相応に認知され、特に不過足を感じることなく、生きていくことが出来るなら、それはそれで幸せなことだと思います。無理してまで、違う世界に目を向ける必要もないのでしょう。

しかしながら、表現というものは、こうした環境とは別の所にあり、そこで生みだされたものが唯一その人自身の有り様になります。もちろん、自分本位ではないことを演じ、表現する場合もありますから、全てがありのままということは言えないのかもしれませんが、それ自体、自分で選んでいるわけですから、そう捉えられても不思議ではありません。

乱暴かもしれませんが、認められることを前提としたものではないと言うことです。自分の意思や考えを、ひとつの作品に反映させ、それを伝える、或いは問いとして成立しているか否かということが、重要なんだろうと思います。

結果的に共感を得られ、いろいろな方に理解される方が望ましいのですが、それには作り手本人の広い或いは深いというスケールが必要になってきます。

何となくこの世界が心地よく、何となくそこから生まれてくるものに安心し、それらを表現としているだけでは残念ながら生まれてこないのですね。

敢えてまるで違う世界に飛び込む、人がどうしてそんなところまでと思う深い所に手を伸ばす、一見して無謀で無理のある世界へ入ってみることも必要じゃないかと。

いずれ比較、評価されるのなら、これからの自分と格闘した方が良いのでは。




新企画“No Plan””Colorful””Natural Woman vol.2” 募集中!!


皆様の参加を心からお持ちしています。




Workshop & Review weeks Ⅱ
2014412日(土)- 56日(火)                                       
13001900、 4/295/5,6を除く月曜日、火曜日休廊
ギャラリー所蔵品、写真集、図録閲覧については、入場無料


0 件のコメント:

コメントを投稿