2009年11月30日月曜日

「終わりよければ全てよし」

早いもので明日から師走で、2009年も残り1カ月となります。


年を重ねるごとに、1年の進む感覚は早くなると言いますが、まさにそんな感じです。

今年は仙台に戻ってきて、5月からこのギャラリーをオープンし、全く知らない方々との出会いや協力があり、なんとか3度の写真展、いくつかの企画を行ってきました。やることなすこと全て初めてなので、試行錯誤の連続でした。そんな中、なかなか思うように行かない状況にじりじりしながらも、あせらずに、出来るだけ楽しんでいこうとだけは思っていました。

昨日もテレビを見ていると、プロスポーツ界でも大詰めなんだなと思わせる中継がいくつかありました。女子プロゴルフでは、最終戦1打差での逆転賞金女王、ボクシングの内藤・亀田戦はその壮絶な打ち合いで、徐々に崩れてくる内藤選手の顔を見ながら、華やかな中にとても残酷な部分を見せつけられる思いがしました。

プロスポーツの世界では、必ずスポットライトを浴びる一方に、必ず影となる存在がいます。影となる存在になった人々は、大げさにいえば、これまでの実績や経歴がその時、その瞬間で崩れてしまうわけです。厳しいですね。

「終わりよければ全てよし」と言う言葉があり、これまでいろいろと問題や混乱はあったけれど、結果としてうまく言ったので良かったというような形で使われる場合が多いと思います。たしか、シェークスピアの戯曲の題名だと思いますが、芝居や原本を読むとそうとばかりは言えないように感じます。

それについては深く言及はしませんが、この物語が単純なハッピーエンドの喜劇だとは思えないし、登場する人物それぞれの立場により、事の顛末としての解釈が違ってくるからです。極端なことを言えば、結果は本人にしか分からないし評価し得ないことなんじゃないかなと思うわけです。

逆に、そんな自己評価に対して、周りの共感や賛同している姿や声を聞くことで、本当にこれで良かったんだろうなと再確認させられるんだと思えます。だから、終わり自体は、決して多くの人々に良しと認められることじゃなくて全然構わないのだと、僕は思っているのです。

2009年11月29日日曜日

「Nearness Of You : The Ballad Book」

部屋でよく聞いているアルバムです.


「Nearness Of You : The Ballad Book」 マイケル・ブレッカー 2001年


マイケル・ブレッカーと言えば、圧倒的なテクニックとパワフルな演奏スタイルで有名なテナーサックス奏者ですが、その彼があえてバラードに挑戦したアルバムです。その為、ファンの間では賛否両論があるようですが、僕は他のミュージシャンのスタジオワーク(1人の演奏者として)での演奏を聴いた時に感じていた優しさや柔らかさが表現されているのでとても好きです。

マイケル・ブレッカーは、2007年、57歳という若さで亡くなっています。ジョン・コルトレーン以降、その演奏スタイルで多くのミュージシャンに影響を与えたとも言われているマイケルは、ジャズファンのみならず、さまざまなジャンルの方々から死を悼まれたことはまだ記憶に新しいことです。

このアルバムは、ジョン・コルトレーンのバラッドを意識していると言われているように、非常に解りやすいフレージングを用いて、一音一音をとても大事にして吹いているのが分かります。メンバーも豪華すぎるほどなのですが、個々の個性が出しゃばることなく、良い意味で見守っているような様子が浮かんできます。当時も体調的に激しくブローすることが困難であったという話もあり、メンバーもそんなマイケルを気遣っていたのかもしれません。

確かにこれまで発表してきたアルバムとは異質で、今まさにやりたいことをやる的な演奏とは真逆ですが、なぜか心が捉われます。いわゆるヒーリング・ミュージックと称されるものとは明らかに違う表現者としての一面が、このアルバムにはあると思うのです。

タイトルの「Nearness Of You」はスタンダードですので、いろいろな方が歌っています。

このアルバムではジェームス・テイラーでしたが、こちらはノラ・ジョーンズのものです。

 http://www.youtube.com/watch?v=2eIH-7qq-WA
 
 

2009年11月28日土曜日

「LOVE CAKE PROJECT」~「The Missing Piece」

街はすっかりクリスマス・イルミネーションに彩られ、仙台でも12月12日から年内一杯「光のページェント」が開催されます。表参道イルミネーションも13年振りに復活するようで、みんなで日本を元気にしたいという思いを感じます。


そんな折、ふとしたことで、こんな運動を知りました。

「LOVE CAKE PROJECT」(ラブ・ケーキ・プロジェクト)

これは、国際NGOワールド・ビジョン・ジャパンが行っている食糧援助プロジェクトで、クリスマスのホールケーキを1人分だけカットして、その1ピース分のお金を貧困や飢餓で苦しんでいる子供たちへ役立てようとする運動のようです。詳しくはこちらのHPでご覧下さい。

http://www.worldvision.jp/
 
参加しているケーキ屋さんは、東京、横浜にある数店のようですが、暗いニュースばかりが報道される中、何かホッとするような話題でもあります。


そんな1ピース分カットされたケーキを見ていると、約30年前に出会った一冊の絵本を思い出しました。僕がまだ大学生の頃で、真っ白な表紙に当時流行っていたテレビゲームのパックマンのようなものが描かれていました。

「ぼくを探しに」シェル・シルヴァスタイン著 倉橋由美子訳 講談社 1979年

かなり有名な絵本ですので、一度は見かけたことがあると思います。僕の場合、訳が倉橋由美子さんだったので、それに惹かれて、何気なく手にしたものでした。

非常に簡単な文章と稚拙とも言える絵で描かれたその世界は、とんでもなく深く、しかも含蓄に富み、子供の絵本とは思えないほどでした。僕は、その後、やっとの思いで(当時はネットもなく地方では洋書は限られたところでしか手に入らなかった)原書「The Missing Piece」を手に入れ、ふたたび読んだ覚えがあります。

覚えがあるというのは、今は僕の手元にはないからです。当時好きだった女の子にあげてしまったように思います。われわれの年代までは、「自分探し」などと言って、大学を一種のモラトリアムとしている風潮が残っていました。そんな自分の置かれている立場で、そこに書かれている1つ1つの言葉に読んでいると、他人ごとではない普遍的な何かを感じていたのだと思います。

今でも、普段は意識していなくても、自分の「The Missing Piece」を探しているのかもしれませんね。

2009年11月27日金曜日

朝陽の中で微笑んで

今日は朝から用事が立て込んで、午前中外出していたので、更新がチョット遅れました。毎朝一番でこのブログを書きながら、いろいろと思いを巡らせ、13時オープンの時間を迎えるのが日課のようになっています。


サラリーマン時代は遅くても始業1時間前には自分のデスクにいましたので、朝8時前には出勤していたことになります。電車のラッシュがひどくいやなことも一因ではありますが、この朝の時間はその日の行動や以前から検討していたことを考える時間としてとても大事なひとときでした。

でも、この習慣は40歳を超えてからの話です。それまでは、いつもぎりぎりに出社しては、即仕事のような感じでした。以前にも書いたと思いますが、僕が勤めた会社は、製造関係だったため、昼夜工場は動いていました。その為、夜間の問題事は、現場サイドでのレスキュー対応に任せ、翌日からの事後処理が常です。(しばしば、夜や休日に呼び出されることはありましたが。)

ですので、朝早い時間での情報収集が必要になります。メールが常用的に情報伝達方法となってからは特にそうで、朝一に確認するメールの数は日増しに増え続け、100通を超えることは当たり前にありました。

人間の情報処理能力(僕の能力)には限りがあり、全てを把握することは難しいですから、当然取捨選択するわけですが、既定のルールに従っていないメールはなかなか曲者で、見逃しが後で大きな問題を起こす場合があります。不思議なもので、このようなメールは結構見ているもので、徐々に危機察知能力みたいなものが備わってくるのかなとも思ったりします。

そんなこともあり早起きだったのかもしれませんが、暖かい朝の日差し(冬場を除いて)は、とてもすがすがしい気持ちにさせてくれます。朝の来ない夜はないとはよく言ったもので、その通りだなと思えることが何よりの幸せなのかもしれません。

今日もとても穏やかな朝でした。この調子だと日中も暖かいことでしょう。
そんな時はこんな曲を聴きながら、ギャラリーを開くとしますか。

http://www.youtube.com/watch?v=4ALbujzAQvw
 
儚い透明感に包まれているこの曲は、気分的にはチョット違うかもしれませんね。


でも、そんな小さな希望の積み重ねが、今ここに或ることに他ならないと思ってもいるわけです。

2009年11月26日木曜日

「QUINAULT」 ~クウィノルト~

濃密な空気感と眼も眩むほどの緑の色彩。


「QUINAULT」上田義彦著 2009年 青幻社

1993年、京都書院より初版刊行後、2003年、青幻社より再版、そして、2009年再々版された写真集です。僕が初めて書店で手にしたものは初版だったと記憶していますが、当時はまだ写真についてはそれほど興味が薄く、購入はしませんでした。しかしながら、圧倒的な描写力は、写真の域を突出しているような印象を受けました。


アメリカ・インディアンより「QUINAULT」と名づけられた森を正面から見据え、8×10により忠実に撮影したこれらのイメージは、太古の昔から現在へと繋がっている生の強さを感じます。

この写真集の特徴は、幻想的ともいえる森の情景に臆することなく対峙している姿が一貫して感じられること、美しすぎるほどのプリント品質(オリジナル・プリントは別物だと思いますが)、そして、裏写りを考慮して、1ページが折り返しされ、袋状になっていることです。

上田義彦さんの作品を最後に見たのは、2006年暮れから2007年春まで東京大学総合研究博物館で開かれた「CHAMBER of CURIOSITIES 東京大学コレクション-写真家上田義彦のマニエリスム博物誌」展だったと思います。冷たい小雨が降る中、博物館に入ると、そこは小川洋子さんの世界でした。入口から、夥しい量の学術標本が展示されている部屋を通り過ぎ、やや奥の一室に作品が展示されていました。

いわゆる記録写真(学術写真)には主観性は必要ないのですが、ここにある一枚、一枚にはそれぞれの個性といったものあり、柔らかさや奥行きのようなもの(作家性に通ずるもの)を感じました。確か、インクジェットによるプリントだったと思いますが、充分に表現されていると感心したものです。写真集も刊行されていますので、眼にした人は多いかと思います。

上田義彦さんは、2006年に「at HOME」という、家族を写した写真集も出しています。この写真集はライカで撮影、モノクロですが、柔らかい光にあふれ、写真家上田義彦の違った一面が見られる秀作であると思います。

いずれも、機会があれば、手にとって見ていただきたい写真集です。




2009年11月25日水曜日

「花の命は短くて…」

polkaよりも長い付き合いで、かれこれ12年以上生きているものが、部屋にいます。


それがこれです。



もうだいぶ痩せてしまいましたが、どこにでもあるミニチュア観葉植物です。花の名前はとんと門外漢なので不明ですが、かなりぞんざいな扱いにもめげず、葉を茂らせています。


このような植物の寿命がどれほどのものなのか、僕には全く分かりませんが、ホントよくもっているものです。ほとんど日光には当たっていないし、ときどき水を替えるくらいで、手入れもしていないまま12年以上もじっと耐え忍んでいるかのようです。

「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」

これは、「放浪記」で有名な昭和の女流作家、林芙美子さんが色紙などによく書いていた言葉ですが、著作にはそれらしい言葉はなく、解釈もいろいろとあるようです。林さんが亡くなったのが48歳、その点では自身の生涯の短さを予測していたかのようにも思えます。

井上ひさしさんの戯曲「太鼓たたいて笛吹いて」では、晩年の林さんの仕事振りを評して「緩慢な自殺」としていましたが、とても気性が激しく、真っ直ぐな、そして現代にも通ずる行動的な女性でした。また、その少々エキセントリックな行動の為、周囲でも林さんの事をよく思っていない人が多くいたと言われています。

当時の女性に対する位置づけは今とは大幅に違っていましたので、言葉に隠された意味に深いものがあると思いますが、今となってはその真意は分かりません。

毎朝目覚めると、この観葉植物が目の前にあります。何も語らず、ただそこにいる(或る)だけですが、なぜか安心します。同時に、polkaの耳障りな鳴き声を聞いてまた安心します。時折、永遠にそこにいるような錯覚を覚えますが、そうではないことも充分分かっています。

「花の命は短くて…」、…以降の言葉は、人それぞれでしょうが、短いのは花の命だけではないのだろうと、歳とともに強く感じていることは確かですね。

2009年11月24日火曜日

今朝届いたメール

今朝早くあるお客さまからメールが届きました。


ハービー・山口スペシャルイベントにも参加して下さり、本当に写真が好きな方なのだと思います。メールの中で、今まで首都圏でしか見られなかった作品が仙台でも見られることを大変喜んでいらっしゃる内容がありました。

僕自身、東京で28年、写真を本格的に見始めてから約7年ですが、毎週のように美術館、ギャラリーを巡り、オリジナル・プリントを見てきました。写真集やHPに紹介される画像とは全く違う世界が広がっていることに改めて感心し、その見かたも徐々にイメージ優先から背景にある思いや温度や感情のようなものを感じ取るスタイルに変わってきたように思います。

1枚の写真に心を捉われてしまうことは、実は非常に稀なことです。確かに、圧倒的な力や存在感が感じられる写真はあるにはありますが、その一枚によって得られる情報はとても少ないものです。ですので、あるテーマや作家の思いを持った写真作品は、意図して展示された一連の作品群を写真展として見ることで、明確になると思っています。

その上で、写真集を手に取られると、表現手段の違いはありますが、同じような感覚を違った観点で見ることが出来ます。また、それは、脳内に記録された写真展の感覚を、引き出しから引っ張り出す発露にもなるわけです。

今朝のメールは僕にとって、とても勇気づけられるものでした。

今回初めてギャラリーに来られた多くの方は、前回、前々回の写真展に来られなかったことをとても残念がっています。これは、僕自身の宣伝不足であり、本当に申し訳ないなと思います。

でも、そのようなお客様のお話を聞くことが、とても僕の力になっています。場所は分かりづらく、入口も何か入りづらいギャラリーですが、少しだけ重いドアを押し入ってもらえると、世界が変わります。

ほんの少し変わったおやじが、そこにいます。実はとても人見知りなのですが、話を始めると、あっと言う間に1時間以上過ぎていることがよくあります。ですので、出来るだけ時間に余裕を持って来てもらいたいと思っています。先ずは、こころゆくまで作品を楽しんでいただくことが第一です。

そのついでで構いませんので、疑問、質問等があればいつでも話かけて下さい。