2009年10月15日木曜日

痕跡

昨夜の宮城スタジアムでの日本対トーゴサッカー親善試合、明日から始まるプロ野球パリーグクライマックス・シリーズと、このところ大きなスポーツイベントが宮城県内で続いています。

昨夜も試合途中からテレビで観戦しましたが、試合内容はともかく、きれいなスタジアムには正直驚きました。日韓ワールドカップ時に作られたこのスタジアムは地理的・構造的な問題を多く含んでいるため、あまり評判が良いとは言えません。県内では、箱物行政のの象徴として捉えられる場合が多く、慢性的な赤字を抱えていると聞きます。

新たにスタジアムのような巨大な施設を建造する場合、やはり立地的な部分での困難さが付きまといます。市街地に近い場所はすでに大きな土地資源も少ないので、結局は利便性の悪い場所を選ぶことになり、利便性が解消しない限り、おのずと稼働率も下がるというものです。宮城スタジアムの場合、多目的スタジアムですので、さまざまなイベントにも使用できるわけですが、専用スタジアムと比較して客席との距離があり見にくいとか、さまざまな制約もあります。

地方にある美術館や博物館のような文化施設の多くもそのような傾向で作られてきました。先ずは中身より建物が重要視されていた訳で、まぁ、そういう環境すらなかったところに作ることはそれだけで意義あることだとは思いますが、結局は物足りない器だけの存在になってしまっていました。

しかしながら、専用の施設を作った場合、それだけで稼働率の確保や集客率といった運営面を解消しきれるかどうかの問題があったことは否めない事実です。そのへんが、非常に難しい選択ですね。スポーツ・文化施設は一般的に人の生活と直接的に密着しているものではありません。僕自身、暮らしや人の心や情感といったものを潤し、今より心豊かな生活を送れる場を提供するものだと思っています。

また、人は生まれてから死ぬまでの短い時間の中で、自分ではそう感じていなくても自然に自身の痕跡を残しながら日々を生きています。仕事や家庭、地域でと、その内容や目指すところはいろいろありますが、自己表現を形に表わし、同じ時間を生きている人々はもちろん、未来に対して残していくのだと思います。スポーツ・文化施設はそういう痕跡の場でもあるのです。

午前中、誰もいないギャラリーの中で、僕は一人で展示されている作品を見ながら、アートもその中のひとつなんだよねと感じながら、頭の中で自分の痕跡のことを考えたりします。でも、それって、自分では確認できないことなので、結局は今の積み重ねが大事なんだろうなと、ひとりごちてしまうのです。

2009年10月14日水曜日

スッキリ。

やっと出ました。スッキリです。

何がってお思いでしょうが、実はこの3日間polkaは便秘でした。朝からあまりきれいな話ではありませんが、玉のような赤ん坊ではなく、ちょっと大きめのウンチが今朝早くでたのです。

話は少しズレますが、polkaは幼い頃から水の飲み方が下手なのか、鼻に水をいれクシャミをしたり、飲んだ直後に戻すことが多いのです。普通猫が戻したりするのは、毛づくろいをして飲み込んだものを毛玉にして出すのが一般的ですが、polkaの場合はそうではなく、ふんばってもウンチが出なかった時などにもよく戻していました。

ですので、家にはペーパータオルが欠かせません。これまで10年以上も一緒に過ごしてきたので、しょうがないなと思いながらも、毎回僕がその後片付けをしているわけです。

今回もふんばってもウンチが出なかったあと、何度か戻しました。それが2日程前の話です。その後、便秘が続き、polkaは来るべきその時に備えるように、すっかり安静モードに入りました。エサにはほとんど手をつけず、水だけを飲んで、あまり動かない状態です。

polkaはこれまで病気らしい病気をしたことのない猫です。でも過去に2回だけ病院に行ったことがあります。1回目は、去勢手術で、2回目はそれから数ヵ月後、おしっこが何日か出なくなったので、病院へ連れて行きました。その時は、尿道結石っぽくて、薬で治療をしました。いずれも生まれて1年以内のことなので、たぶん覚えていないと思いますが、その時の暴れようは、迎えに行った時の看護婦?(スタッフ)さんの表情を見れば良く分りました。

以前から時々便秘はあったのですが、今回は少し長かったので、最悪病院行きを思い浮かべていました。そんな矢先だったこともあり、内心ほっとしながらも、今日からまたうろうろと部屋を徘徊し、朝5時頃に耳元で鳴いてくる姿が頭に浮かびます。

でも、まぁ元気なことは良いことです。表情はあまり変えないし、言葉も発しないので、考えていることは良く分りません。でも、もし言葉を使うようになったら、お互い気まずい思いをするかもしれないし、それはそれで良いのかもしれません。

今では、いつもお互いの存在を意識しながらも、すっかり甘えることもないのに、気がつくと隣にいる、そんなあり方が自然で良いのかなとも感じています。

2009年10月13日火曜日

決して劇的ではなく。

先の「楽屋」舞台中継後にイッセー尾形さんの一人芝居が放映されていました。

以前文化庁メディア芸術プラザのHPで、「イッセー尾形の演劇はポップアートだ」という記事を読んだ覚えがあり、調べてみると、イッセー尾形さん自身が書いた文章で、次のようなことが掲載されています。

「コーラの瓶を美術館に置くと、何の変哲もないガラスの容器が、魅力的に見えてくることと関係があるらしい。それよりなにより、コーラの出回っている量は多すぎて、気にも留めないという当たり前の日常を、美術館に置くことによって意識化させるのだそうだ。確かに僕の取りあげる人物は、どこにでもいるフツーの人たちに限られている。劇的とは無縁の人に、真っ白の舞台上でスポットライトを当てる。(中略)観客も舞台で演じられた僕の役を通して、身近な人を再発見するのであれば、ポップアートといえるかもしれない。」

確かにイッセーさんが演ずる人達の多くは、ごく一般に生活をし、ほとんどは、仕事の枠組みに知らないうちにはまりながら、人物形成されている人達と言ってもよいと思います。ただ、そこには演劇としての誇張や解釈や表現の方法によって、だれもが持っている優しさや哀しみや良い意味でのいい加減さが表れています。

そんな何も無い舞台上で演じられる姿に、観客は共感や驚きや可笑しさを感じ、こんな人いるよねとか絶対いないよな、などと思いを巡らせているのです。思いを巡らせることは、舞台上で創造された人物や場面を、観客自身が想像し、同時に共有していることです。だから、イッセーさんが行う芝居は、いわゆるパフォーマンスではなく、演劇なのだと思います。

ポップアートとの関連は前述した言葉の通り、モチーフや方法論的に共通性を見出すことは出来ますが、何か違うような気もします。たぶん、表現の媒体として、自らの肉体が目の前にあることがそのように思わせるのかもしれません。より直接的と言ったらいいのか、届く距離感が近いこともそのように感じさせる一因だと思います。

そんなことを考え、現実の世界に目を向けてみると、僕たちも様々な職種や仕事上の立場の中で、その役割を演じているだけではないかとさえ思えてきます。しかもそれが、決して劇的ではなく、日常の中でごく自然な形で行われているのですから、あらゆる人間はとても素晴らしい役者であるのかもしれません。

2009年10月12日月曜日

澄んだ秋空に思うこと。

雲ひとつない青空です。

今朝は放射冷却の影響で、朝の最低気温が10℃を下回り、非常に寒い目覚めでした。カーテンを開けると、気持ちの良い朝の陽射しが入ってきます。

3連休最後の日、今日は体育の日です。シルバーウィークの時もそうでしたが、以前は祝日が決まっていたのが、いつのまにか流動的になり、何か祝日イコール記念日との感覚が無くなってきたように感じます。これも国民の祝日というより、個の生活スタイルに寄ってきた証なのでしょうね。

僕の場合、就職してからずっとエンジニアとして生活し、工場が常にあったことやそれも24時間稼働していたこともあって、曜日や時間については、かなり許容範囲が広い方だと思います。ですので、曜日や連休に関係なく、一定しない休みがしばらく続いていました。

ここ5年は、かなり改善?され、休みが一定に取れるようになってきてからは、仕事以外での行動の方が激しくなりました。

今は、個人で行っているので、時間的には自由だろうと思われがちですが、なかなかどうして外出する機会が少なくなりました。営業時間は決まっていますが、それ以外の時間の方がこまごまとすることがあり、自然とギャラリーにいることが多いですね。

高橋和海写真展も今週で終了です。来週からは次回の準備に入ります。
2か月は一般的には長い会期のように思われますが、気がつくともう終わるのかという感じがします。これは、前回横木安良夫写真展終了時にも感じた事ですが、きっと毎回同じような思いをするのでしょうね。何回か繰り返していく内に、経験も伴い、次第にルーチン化していくのが仕事の常ですが、出来るだけその時々の感覚は大事にしていきたいと思っています。

喜劇王チャップリンが、「あなたの最高傑作は?」の問いに、「Next one」と答えたことはあまりに有名な話ですが、僕はむしろ現在していることに出来るだけ集中し、今出来ることを行うだけです。まあ、理想的には、今の仕事と同じ仕事を繰り返し行うモチベーションがなくなるほど、達成感とかやり切り感が得られればいいのですが…。

とりあえず、もがくことも楽しみながらいければと思っています。

2009年10月11日日曜日

「楽屋」 NHK芸術劇場 観てしまいました。

日々のいのちの営みがときにはあなたを欺いたとて
悲しみを又いきどおりを抱かないで欲しい
悲しい日々には心をおだやかに保てば
きっとふたたびよろこびの日が訪れようから
こころはいつもゆくすえのなかに生きる
いまあるものはすずろに淋しい思いを呼び
ひとの世のなべてのものは束の間に流れ去る
そして、流れ去るものはやがてなつかしいものへ……

「楽屋 〜流れ去るものはやがてなつかしき〜」の冒頭で読み上げられる一篇の詩です。
プロンプターと俳優の声が重なり、懐かしいメロディーとともに読まれていました。

劇作家、清水邦夫さんの戯曲を評して、詩情あふれる台詞により綴られる芝居とか、かつての先人達が作り出した台詞を引用しながら、構造的に二重性を持たせることで、過去の記憶を現在へと導き、その意味の重厚性を際立たせるのが非常にうまいと言われています。

この「楽屋」にもいくつものと言うか、ほぼその流れの中で、生身の女優と舞台上での女優自身を観客が直に観ることで、哀しくも可笑しく、そして何より生きていることの輝きを導き出してくれています。

因みに、冒頭の詩は、プーシキンです。最初のエチュードのような形で語られているのがチェーホフの「かもめ」、途中、シェークスピア「マクベス」や三好十郎「斬られの仙太」が出て来て、唯一生きている女優を演じた村岡さんが楽屋を出ていく時に発する台詞がツルゲーネフ。そして、最後がチェーホフ「三人姉妹」で幕が下ります。

まさにこのような台詞の仕掛けによって、言葉の持つ重厚さを創造し、登場人物の生に輝きを持たせているのです。同時に、観る者が登場人物に対して自然に愛情を感じざるを得ない状況へといざないます。

まさしく、演劇でした。
以前から、学生演劇や小劇団で上演を繰り返される理由を垣間見た思いがします。

予想通り、出演した4人の女優は、自分の個性をしっかりと把握して、舞台上の女優を演じていました。特に、村岡さんの独白には、女優が持っている業の深さや悲しみなんかも通り越して、一人の女性としての凄みすら感じました。

それから、舞台美術がとても良いのには感心しました。二村周作さんですね。古びた屋根裏のような楽屋の狭い空間が、特別な部屋であることを自然に意識してしまいます。舞台へと続く階段を舞台中央にしつらえたのが一層楽屋と言う影の部分を演出していたように思います。余談ですが、sisterでの舞台上での水の使い方は、二村さんならではでした。

こうなると、やはり生で観たくなります。今回の出演陣で再演するのは非常に困難だと思いますが、是非地方公演も含めて考えてほしいと望みます。

その間は、DVDに収めた映像で我慢するとします。
冒頭のプーシキンの詩を思い起こしながら…。

2009年10月10日土曜日

ギャラリーの前にある自動販売機

ギャラリーがあるビルの前にソフトドリンクの自動販売機が3台あるのですが、ついに暖かい飲み物が交じるようになりました。こんな大通りから入った横道になんで3台もあるのかと思っていたのですが、結構近くの人は利用しているようです。僕はたいてい通り一つ離れた100円ショップで買っていますが、自動販売機はやはり便利なものです。

かなり前になりますが、仕事の関係でおもにアジア圏への海外出張が多かった年がありました。もう15年程前の話です。その当時は、国内での製造業が盛んにアジア圏へ工場や事務所をシフトさせていました。僕はその時分、プラスチック製品を作るための金型というものを自社発注したり、メーカーで製作しているもののトライ等の仕事をしていました。イニシャルコストを抑える為に、国内製作からアジア(当時は台湾や韓国が主流でした)へ移行し始めていましたが、質的にはまだ国内のものよりは劣っていました。そのため、技術的な指導も含めて、立ち会いに行っていたのです。

台湾、韓国には、合わせて年間3~4回程度行っていたように思います。韓国はまだオリンピック前で、仁川(インチョン)にはあんな立派な国際空港もなく、ソウルから車で移動した覚えがあります。

当時、アジアの都市部が中心だったのですが、街頭で自動販売機をほとんど見ることがありませんでした。タバコを買う時も露天やホテルで身振りをしながら買っていました。ソフトドリンクもそうだったと思います。一度だけ、韓国で飲料メーカーの工場の前に自動販売機を発見して、何となく買ったことがあります。海外のコインはスロットのコインを思い起こさせ、妙な感覚で買ったように記憶しています。

今はどうなっているのか分りませんが、最近の経済成長は目覚ましいものがあり、工業製品も質的に日本製品と差がなくなりつつあります。自動販売機も増えているのかもしれませんね。

確か、韓国で出会ったのは赤いイメージの強い炭酸飲料のもので、まだビンのものでした。




2009年10月9日金曜日

台風一過。


台風一過。

2年振りの本州横断で、今朝のニュースは各地の被害の様子が映し出されていました。雨もそうですが、非常に強い風が停電や交通機関の乱れに起因していましたね。現在は北海道を通り過ぎようとしているようです。

通常台風が過ぎると、青空が広がるのが一般的ですが、仙台の空はどんよりとした厚い雲に覆われ、とても肌寒く感じられます。もう、寒冷前線が発生しているみたいな雰囲気です。

一昨日の午前中に、次の企画イベント会場の仙台市青年文化センターまでちょっとした打ち合せに行ってきました。仙台文学館側の駅前広場に植樹された木々は少しですが、赤く色づいていました。広場はとても落ち着いた雰囲気で、秋の静けさが感じられる空間です。何より、バス停やタクシー乗り場が無いのがいいですね。すぐ前が台原森林公園で常緑種が多いので、非常に緑濃い木々に覆われ、仙台文学館へ続く遊歩道はとても気持ちが良く、何か心が洗われるようでした。(上の画像です)

イベントに参加される方は、少し早めに来て、木々に触れるのも一考ではないかと思います。でも、12月なので相当寒いのは覚悟した方が良いかもしれません。

さて、高橋和海写真展の残りわずかとなりました。
緊急ですが、今週と言うか、11日(日)、12日(月)の連休は休まず、ギャラリーを開きます。
今まで来廊されたお客様のほとんどの方は、作品の質の高さ、圧倒的な美しさとその精神世界に感銘を受けておられます。
作品は作家自身を写すと言われますが、まさにその通りです。イベントでお会いした時は、全く気取りがなく、自然体で、なにより写真に対して真摯に向き合っている印象を強く受けました。

ぜひとも、より多くの方に見て頂きたいです。