2009年11月5日木曜日

テレビのある暮らし

仙台に戻ってきてからテレビをよく見ています。受信料を支払っているからというわけではありませんが、NHKを見る機会が多くなりました。特に、23時以降にある番組は、時にNHKらしからぬ番組もあって、いつのまにかリモコンのボタンに手を伸ばすようになったと思います。

東京に出たときは、会社の寮に入っていたので、当然のように部屋にはテレビは無く、談話室のような部屋で流れている番組を眺めるでもなく過ごし、その後、寮を追い出され、6畳一間キッチン付の安アパートに暮らし始めてからも、しばらくはテレビを買うことはありませんでした。その当時は音楽や映画の方に興味があったので、もっぱら家では音楽、外に遊びに行けば映画館ばかりだったように記憶しています。

それから20代後半になり、次第に会社でも仕事を任され始めると、周りのエンジニアがそうであったように、遅くまでの残業は当たり前、徹夜もしたりで、帰宅してのテレビはお決まりのリバイバル映画だったり、ほとんどが見るだけで疲れるものばかりで、ただテレビのスイッチを入れていただけでした。
その頃から、レンタルビデオが出だしたので、映画館へは足が遠のきはじめ、家で映画を見ることが多くなり、何故かアートにも興味が出てきて、美術館なんかに行きだしました。まぁ、当時は写真も好きでしたが、もっぱら絵画や彫刻を見に行ってましたね。

そして、30代は、特に中盤以降ですが、ある事情で外の世界(テレビも含め)とのつながりが希薄になりました。今はまだ話す時期では無い(多分ずっと無いと思いますが)ので飛ばしますが、40代で新たな会社に入社し、住居を川崎から池上のマンションに移してから、自宅にホームシアターを置き、当時は出たばかりのHDDレコーダーも購入し(ハイビジョン番組が8時間しか録画できない!)、レンタルDVDや番組を録画したものを楽しむようになりました。

芝居を観にいくことを再開したのもこの頃です。仕事は信じられないほど忙しく、帰れない日もしょっちゅうありましたので、HDDレコーダーは重宝しました。でも、そんな趣味の関係で、もっぱらWOWOWやBSの番組を録画しては、後から見ているケースが多かったのです。ですので、テレビで有名な芸能人とかお笑いなんかは、全くと言ってよいほど知らなかったわけです。

そして、今、2年後どうなるのかなと考えながら、地上波放送を20年分ぐらい、一気に見ているような気分なのです。

それにしても、いまさらこんな自己紹介のようなことを書いているのか自分でもよく分からないのですが、眼の前に展示されている作品のミュージシャンらの若かりし頃への懐かしさや今を生きている若者達の笑顔とまっすぐな眼差しにほだされてしまったのかもしれないですね。

2009年11月4日水曜日

初日…夜空には満月

昨夜は見事な満月でしたね。

19:00過ぎに表に出た瞬間、かなり低い位置にまん丸の月が眼に入りました。一日中冬のような寒さでしたので、大気は澄みきり、とてもくっきりと美しかったです。
それにしても、夜になると一層寒さが増して、久しぶりに顔が痛い感覚を受けました。

そんな寒い中、昨日見えられたお客様はほとんどが初めてのお客様でした。連休最終日でもあったし、今年一番の寒さも手伝って、いきなり押し寄せるようにはいらっしゃらないだろうと思っていましたが、それでも来ていただいたお客様には感謝です。

僕も出来るだけ来ていただいた全てのお客様とお話をしたいのでが、何人か重なってくるとどうしても出来ない場合があります。本当にごめんなさい。
でも、話かけてほしくない人もいるわけで、僕の方も何となくですが判るようになってきました。逆に話しをして欲しいと思っているお客様も、何となくですが判るようになってきました。

仙台のお客様は全体的にとても遠慮深く、時間の流れも少しゆったりしている印象です。僕も高校までは仙台でしたが、その後東京での生活のほうが長いせいもあり、都会のせわしなさや人との稀薄性を感じながら、今ここでとか、こちらから動かないと、と言うような、一種脅迫めいた感覚がどこかにあるような気がします。

いい悪いは別にして、そんな文化や地方性はどんな世の中になっても残っていくべきだと思います。日本全国画一化していっている現在、地方都市が小東京化していく感覚は、利便性や効率性を考えれば、それはそれで正しい動きなのかなとは思いますが、何かつまらないですものね。まぁ、そんなことを時折考えながら、1人ギャラリーの扉が開くのを待っているようなわけです。

蔵王や泉ケ岳(この山は仙台市内になっています)には初冠雪があったのですが、今日は少し、暖かさが戻るようです。この時期、コンビニのおでんが一番売れるようなことを今朝のニュースで言っていました。寒さに慣れる前に、急に寒さに触れ、暖かさを求める人の気持ちが影響していると解説していました。

今日も、ギャラリーの中は暖かさに溢れています。

身も心も温めていってもらいたいと願っています。

2009年11月3日火曜日

今年一番の寒さですが、本日お披露目です。

急に寒くなりました。

昨日は、午前中、自転車を飛ばして、DMを置いてもらっている所を何カ所か覗いてきましたが、どこもほぼ半数ぐらいになっていました。会期途中で補充しようと思います。
昼食後、午後早くギャラリーに戻ってきたのですが、寒さが尋常ではありません。自転車置き場からかじかんだ手をさすりながら、ギャラリーの入口扉のカギをポケットから取り出そうとした時、ポツリ、ポツリと冷たい雨が降ってきました。

体感的には10℃を下回っていたのではないでしょうか。仙台は、もうコートの季節だなと思っていたところに、扉をたたく音がしました。返事をして開けてみると、いつものヤマト便の人です。

「今日は小さい荷物です。」と言いながら、段ボールで1箱を手渡しでくれました。写真集「HOPE 空、青くなる 」でした。昨日来なかったので、どうしたのかなと思っていたのですが、日曜日だったこともあり、今日の状況次第で連絡をしようと思っていた矢先でしたので、とりあえず開催に間に合って良かったと胸を撫で下ろした次第です。

いつも来るヤマト便の人は、2名程いるのですが、最近は一人作業になり、大変だと言っていました。僕に来る荷物は大抵巨大なので、前回の高橋数海写真展での大判(1200×1500mm)を搬入する時には、2人で運んでくれました。2ヶ月後、つい先日こちらから運び出す時は1人でしたので、ほとんどの荷物を僕と2人でトラックまで運びました。

トラックへの積み込みが終わり、支払も済んで、僕もほっとしたところ、ヤマトの人は一旦ギャラリーから表に出てから、少ししてまた戻ってきたのです。何かあったのかと思ったのですが、手伝ってくれたお礼にと、飲み物を置いていきました。これが、あきらかに、前にある自動販売機から買ったものなんです。

これって自腹なんだろうなぁと思いながらも、悪い気はしませんでした。でも、他のところでもそんな感じだと大変だよなとも思いました。大変と言うのは、ヤマトの人はもちろん頼んだ人もですね。僕の場合は手伝える状態だったので良かったのですが、そういうお客さんだけとは限りませんから。

そう言えば、サービスセンターに引き取り依頼をした時にも、荷物の大きさすら聞かれなかったことを思い出しました。保険の件もドライバーに話して下さいと言われて、変だよなと感じてたんですよね。荷物を見て、保険のことを話した時、人の好いそのドライバーは、結構慌てていましたから。

どの会社でも、事務方と現場とに実務の部分で温度差があります。特にこの不況の折ですから、その言われも得ぬ不条理感は、解っていてもね…、と言うところはあります。「踊る大捜査線」(古い!)じゃないですけど、時に叫びたくもなる気持ちは充分理解出来ます。

僕はどうなのと言うと、今のところどっちも一人でしてますので、幸か不幸か文句を言う相手がいません。時折ある自己矛盾に向き合う程度です。

まぁ、そんな時は目の前にある作品を眺めては、小っちゃい、小っちゃいと心でつぶやきながら、結局は作品に癒されてしまっています。(癒されるという表現はあまり好きではないのですが、ちょうど良い言葉が思いつかないので)

さて、本日お披露目です。

寒さもあるので、入口のドアは微妙にしか開いていないかもしれません。
少し重いドアを押し開いた先は、暖かい空間に包まれます。

どうぞ、気をつけてお入り下さい。

2009年11月2日月曜日

暖かい陽だまりのような空間で・・・

ハービー・山口写真展もいよいよ明日開幕です。

今回のギャラリーは明るさで一杯。作品の持つ温かさを感じてもらいたいためです。
観る方が自然に笑顔になってくれれば、しめたものです。

言葉や講釈は必要ありません。感じるままに感じてもらえれば、それで良いとさえ思っています。(本当はそうじゃない気もしますが)

開幕までの準備期間に、その時々で展示構成や演出を考えるわけですが、今回も作品を見続けている内に自然と決まっていく感じで、何か作品自体に導かれているような錯覚を覚えました。本当はより客観的に判断し、決定していかなければとは思っているのですが、感覚が先に立ってしまいます。まだまだ、アート写真好きのおやじなんですね。

企画展も3回目となりますが、高橋数海写真展の時には、来廊者の半数以上が初めて来られた方でした。今回はハービーさんの知名度もあるので、どれほど多くの方との新たな出会いがあるかも楽しみです。もちろん、毎回来て下さるお客様は、来るたびに違ったギャラリー空間をお見せしているつもりですので、それはそれでお話を伺うだけでも面白いです。

仙台はまさに寒い冬へと向かっている時期ですが、暖かい陽だまりのような空間で、写しだされた笑顔やまっすぐな想いの一つ一つを感じてもらえればと思います。お一人でも構いませんが、出来れば、身近な誰かと一緒に時間と空間を共有してほしいとも思っています。

きっと、優しい風がこころの中を通り過ぎていくことでしょう。そして、あまりに身近であるがゆえに、普段気にかけてもいない本当の安らぎといったものが、実は目の前にあったことに気付くはずです。

それは、ほとんどの人は自分を取り巻く本当に小さな世界の中で、感情と共に生き、ごくごく身近な人たちと親しい関係を持ちつつ、ほんのわずかであれ幸せを希求しながら生きていくものだと、僕自身が信じていることを意味しているのです。

2009年11月1日日曜日

「決定的に自由であるために」

世の中にはすごい人がいるものだと、衝撃を受けることって誰にでもあることだと思いますが、まさにそんな人を見てしまった気分です。

その人は、生け花作家の中川幸夫さんでした。

偶然スイッチを入れたテレビから映し出されたこの作品を見た瞬間、なにかとんでもないものを見てしまったような感覚を覚え、作品の映像が無くなってもしばらくは画面から眼を離すことが出来ませんでした。

中川幸夫「花坊主」1973年 

カーネーション900本を自作のガラスの器に密閉状態にし、白いふすま紙の上に逆さに1~2週間程置くと、赤い液体が流れ出てきて、このように拡がった状態になると解説していました。こういう生け花としての表現があること、そしてそれ自体が決して奇抜さだけではなく、アートとして成立している姿に、僕は感動していたのだと思います。

中川幸夫さんのことは、多くの方がすでに知っているのかもしれません。しかし、僕自身生け花はおろか、花の名前さえよく知らない門外漢ですので、どんな人なのか興味が湧き、少し調べてみました。

中川さんは、3才のとき、怪我がもとで脊椎カリエスにかかり、それ以来背中は曲がったままです。小学校卒後、大阪の石版印刷屋へ奉公に出るが、病気により9年後帰郷。祖父、おばが池坊に属していたことから、いけばなを始め、1949年「いけばな芸術」へ送った作品写真が重森三玲に認められました。しかしながら、1951年家元と衝突、絶縁状を叩きつけて上京。それ以降は、どの流派にも所属せず、独自の前衛華道の道を歩むようになったそうです。

「決定的に自由であるために」が、池坊脱退声明でした。戦後間もない頃ですから、当時は並々ならぬ決意と行動であったと想像出来ます。それからは、生活も困窮の極みではありましたが、個展をはじめ作品制作を精力的に行い、現在は故郷の香川で過ごされているようです。

おどろおどろしいまでの赤の色彩と密閉された空間で悲鳴を上げているかのようなカーネーションの花びら達、死してもなおその生の美しさを、「活ける」ことによって表現していかのように僕には感じられます。

中川さんはガラス作品制作も行っています。また、写真との関わりも深く、自身の作品の写真も撮ら、図録に載せています。師事した写真家は土門拳さんだと言います。

まだまだ勉強不足ですね。世の中には僕の知らないとてつもない人がまだまだ沢山いるのでしょう。

「決定的に自由であるために」…… それにしても、すごい言葉です。

2009年10月31日土曜日

憂世と浮世

3日前に歌舞伎公演「女殺油地獄」について掲載しましたが、その放送があった週の爆笑問題のニッポンの教養で偶然にも「カブキズム!」と題された放送がありました。

登場していたのが、早稲田大学名誉教授で比較演劇学者の河竹登志夫さんでした。河竹と聞いて、えっと思う方は結構多くいらっしゃると思いますが、「こいつは春から縁起がいいわえ」など数々の名台詞を残した天才歌舞伎作者・河竹黙阿弥のひ孫でもある人です。

僕が河竹さんを初めて知ったのは、かなり昔のテレビ放送だったと思いますが、その時紹介された「憂世と浮世―世阿弥から黙阿弥へ」 (1994年刊行NHKブックス)という本が読んでみて、改めてとても面白い方だなと思っていました。

本の題名である憂世と浮世ですが、これは両方とも「うきよ」と読みます。(そんなこと解ってるわいとツッコまれそうですが)河竹さんは本の中で、この2つの「うきよ」を次のように言っています。

中世武家社会の芸能である能の世界観と 近世町人社会の芸能である歌舞伎に流れる世界観を 対比させたもの。 簡単にいうと、この世の悲劇をシリアスに受けとめ、 そこからの救済を願うのが「憂世」観であり、「どうせこの世は憂きことばかり」と開き直って、いま、この時を 楽しんでしまおうというのが「浮世」観。洋の東西を超えて、人間が生きるところにはいつも、この二つの世界観が楕円の二つの中心のようにあるのだ。

番組で、現在はどちらですかの質問に対して、河竹さんは「浮世」だと話していました。価値観の多様化や生活習慣・レベルの差はもとより、社会構造自体複雑極まりなくなってきた現代において、憂きことは、簡単に解消しきれないし、死ぬまでに残ってしまう可能性の方が高いと言えます。それだったら、いま、この時を「浮世」と思い、生きることを楽しむことのために、日々送った方がましで、むしろその為の問題解決の手助けをした方が良いのだと考え、そう話したのかもしれません。
まぁ、そうは言っても、生きていくだけでもそれはそれでしんどい世の中でもあるわけで、一筋縄では行かないのが現実です。

一昨日の深夜、8月に遊びにきた元部下(こういう言い方はあまりしたくないが)から1通のメールが届きました。その中には以前の会社にアルバイトに来ていて、とても親しくしていた古澤君の近況が書かれていました。

古澤君は8/9の「ひとときの幸せ」にちょっと載せた演劇をしている若者です。フルネームは、古澤裕介君と言います。ポツドール公演では劇団員でもないのに、ほぼレギュラーで出演し、鉄割アルバトロスケット公演にもよく出ていたりしていて、その方面では、結構ファンもいます。普段の彼はとても真面目でとてもいい奴なので、芝居をしている彼を見ると何か同じ人間のようには思えないほどです。
そんな古澤君も最近テレビの端役(失礼な言い方ですが)で出演していました。(クレジットも出ています。)

http://www.veoh.com/browse/videos/category/action_adventure/watch/v19264722qqEg67sH#

http://dramato.blog98.fc2.com/blog-entry-11457.html

1つは東京DOGS、もう1つはNHK ママさんバレーでつかまえて、です。
いずれも中盤から後半にかけて、登場してきます。

彼とメールのやり取りをした最後が、9月の始めです。その時には、ここ何カ月かはアルバイトに集中しています。アルバイト先が必要な時入れるようにしないと解雇される恐れがある為です。いまは日々の生活で目一杯です、と言うようなことが書かれていました。

やはり不況の影響は大きいのですが、頑張って芝居を続けて欲しいなとずっと思っていたのです。そんな折、この知らせで、テレビ出演して良かったなとホッとした感情と同時に、自分は約2ヵ月も連絡すらしていなかったことに気付き、愕然としてしまいました。

昨日も書きましたが、気持ちだけではダメなんです。

このブログもそうですが、今日にでも、言葉として伝えようと思います。

僕自身、河竹さん同様、この世は「浮世」だと思っている人間ですから。

2009年10月30日金曜日

プロ野球ドラフト会議

昨日午後にプロ野球ドラフト会議がありました。

今年の話題は何といっても18歳の高校No.1左腕、花巻東(岩手)・菊池雄星投手が何球団に1位指名を受けるかと一般の方が招待という形で見られるようになったことです。一般の方が見られることもあり、抽選の箱が透明になり、各球団の代表が封筒を取る時の手の動きが分かるようになっていました。

僕は仙台では地上波で放送されていなかったこの中継をKeyHoleTVで見ていました。ブロックノイズだらけで音声も途切れがちではありますが、興味ある番組が首都圏だけでしかやっていない時に、時々見たりします。昨日のドラフト会議中継は、アクセス数も多かったこともあり、途中何度も途切れましたが、1位指名の場面だけは見ることが出来ました。

菊池選手がプロ入り宣言をしてから、花巻東高校に訪れた球団は日米合わせて20チームらしいのですが、国内プロ入りを宣言してから、ドラフト会議前には9球団が1位指名をするのではないかと言われていました。

いざ蓋を開けてみると、最初の4球団からは菊池選手の名前が出てきません。一瞬会場にざわめきがでましたが、その後最終的には6球団による指名となりました。それから先はニュースでも報じられたように、西武が指名権を獲得したわけです。

1位指名しなかった3球団については、それぞれの大人の事情もあったわけで、責められるものではありませんが、これまでドラフト会議をめぐって行われてきた過去の出来事を思うと、やはりほんの少しですが違和感を覚えます。

ドラフト会議で指名を受けた選手の多くが、幼いころからの夢でしたと言いますが、まさにその言葉に嘘はないように思います。でも、指名を受けられる立場になった時点で、それはもう決して夢ではなく、大人となった現在の現実でもあるのです。

菊池選手の場合は、どの球団でもOKとの意向がありましたから、特に問題にはなりませんでしたが、今回巨人から指名を受けた長野選手は過去2度の他球団指名拒否をしていることも事実としてあります。まぁ、職業選択の自由があるとはいえ、誰しもがプロ野球選手にはなれませんし、一般の多くの人もこの職業じゃなければ(この会社じゃなければ)と思っていても、実際そうなることは少ないですからね。

でも、人生は1回きりでしかも非常に短いのですから、初志貫徹みたいな考えには、年を重ねる程に惹かれます。また、真摯にそんな人生を送っている人々には少しでも応援していたいなとも考えています。

そして、最も大事なのは、その事を心で思うだけではなく、ちゃんと相手に伝えることなんだろうけど、
ホント、むずかしいですね。