2009年8月31日月曜日

写真~出会い~表現すると言うこと

昨日ファイン・アート・フォトグラファー講座が無事終了しました。
御参加下さった皆様には、長時間のご拝聴、誠に有難うございました。

参加された方々は非常に若かったのですが、自身のお話の内容を聞いていると写真との付き合い方にとても真摯だったのがとても印象的でした。

東京では10年以上続けられてきたこの講座は、写真家を志す方や写真に関わりをより深く持ちたい方にとっては、非常に有意義な講座であると思っていました。事実、仙台を始め遠方から東京に足を運んだ方もおられるほどです。

ギャラリーサイドから見たアートフォトの捉え方、作家としてのアプローチの仕方等、普段は聞くことが出来ない話を、福川さんは次々と話され、改めてその視野の広さに感銘した次第です。

又、参加された方が日頃より感じていた疑問や考えを素直な気持ちで発言されている様子は、正直驚きでもあり、感動すら覚えました。

写真という表現方法と何らかの形で出会い、撮る行為を持って自己表現することを選択した人は、数多くの偶然の中で、何らかの必然により被写体と対峙します。その感覚は、その人にしか感じられない部分でもあり、一方、他の人にも共有してもらいたいものでもあります。しかしながら、人はそれぞれの営みの中で生き、おのずと経験や環境の差により感じ方が違ってしまうことはまぎれもない事実なのです。

それゆえ、表現者としての道を選んだ人は、悩み、模索するのだと思います。

また、それが受け入れられる、られないは別にして、方法論は無数にあります。

僕は昨日片隅で様子を見ながら、この講座がそんな無数に存在する方法論や考え方を自分の中で整理し選択する一つのきっかけになってくればいいなと思っていました。

今後も随時開催したいと考えています。

御要望、ご意見も取り上げていきたいと思っています。

そして、少しでも皆さんの力になれればと。

2009年8月30日日曜日

本日東北圏初のファイン・アート・フォトグラファー講座開催

本日東北圏では初めてとなるファイン・アート・フォトグラファー講座が開かれます。
東京で10年来毎月行われてきたもので、ブリッツ・インターナショナル代表である福川芳郎氏を講師に迎えます。

ギャラリーをオープンしてまだ3ヶ月余り、しかも東北圏では前例の無いアートフォト専門ギャラリーの企画として本当に申し込みがあるかどうか、非常に不安でした。幸いなことに、オープニング写真展で行った横木安良夫ワークショップ&トークショーが非常に好評だったこともあり、その時に来られた方を始め、ほぼ定員通り参加下さる予定です。

今まさに準備を行っている最中ですが、僕自身とても楽しみです。

この講座は、写真家を目指されている方を始め、アートフォトを楽しみたいと考えている方にもお勧めしたいものです。内容は主に普段は絶対に聞くことが出来ない実務レベルの話ですので、アートフォトに対する見方や接し方が変わり、自分自身が抱えてきた疑問や課題に対する解答が見えるかもしれません。

また、当ギャラリーでは現在企画展を主として行っていく予定でいます。
その理由として今週のブログのギャラリーを開いた訳に書きましたが、本物(オリジナル)を観て頂きたいからです。そして、写真展を開催している間に、出来るだけ写真家の方との触れ合いの場を作っていきたいとも思っています。

現在行われている高橋和海写真展においても、作家とのワークショップ、ビューイングイベントを企画していますが、残念ながらまだ予定に達していない状況です。

首都圏においても、作家による定期的なワークショップや企業の企画を除き、作家自らが講師として実際のカメラワークをお話する機会はあまりありません。

是非この機会に参加をご検討下さい。

詳細はこちらです。

http://kalos-gallery.com/event/pg130.html

ご不明な点、ご要望等があればいつでもご連絡願います。

2009年8月29日土曜日

忘れえぬ写真 永遠そして記憶


2007年春、僕は静岡県三島にあるヴァンジ彫刻庭園美術館に行きました。それは、僕の好きな写真家のひとりである古屋誠一さんの「Aus den Fugen」という企画展を観るためでした。

ヴァンジ彫刻庭園美術館はクレマチスの丘と称された自然公園もある文化施設のひとつで、東京から三島まで新幹線で約1時間、そこからバスで20~30分程で行けます。少し、高台に位置するその美術館は、とても見晴らしも良く、一瞬日本ではないような感じがします。普段は、現代イタリアを代表する彫刻家、ジュリア-ノ・ヴァンジの作品が野外と館内に展示されている個人美術館ですが、今回西伊豆生まれでもある古屋さんの作品が館内の一部に展示されていました。

展示室の入り口すぐの場所に展示されていた作品が、上の写真集からの画像です。小さいのでよく判らないかもしれませんが、全体的に明るい淡いブルーの色調が美しく、水平線が空に溶け込む波間に白い一艘の小舟が写っています。これは、故郷である西伊豆の海を撮ったもので、下のパンフレットの女性のバックに写っている海とのことでした。

その時、僕はこの作品から”永遠”という言葉が思い浮かびました。

実は、パンフレットに写っている女性は、古屋さんの妻であり、1985年に亡くなられたクリスティーネさんです。古屋さんはクリスティーネさんが亡くなられてから、生前撮りためていたポートレイトを自ら整理し、私的な記憶の残影を作品として発表していました。写真集としては、”Memoires 1983”があります。

そんな作品の数々を写真集として見た時から、いつかはオリジナルを見なければいけないと一種使命感のような感覚を覚えていました。しかしながら、会場に入った途端、はからずも、クリスティーネさんのポートレイト写真よりも、この海の風景を撮った作品に強く惹かれたのでした。

写真展のタイトルである「Aus den Fugen」は脱臼した時間と訳され、写真集としても発刊されています。古屋さんは妻の死後、撮りためたポートレイトに自ら向き合うことで、あくまで私的な永遠の記憶を写真と言う媒介を通してわれわれに見せているように思えます。

そんな思いが、永遠と感じた所以なのかもしれません。


その後、2008年8月に東京オペラシティ アートギャラリーで行われた”トレース・エレメンツ”展で再び見た時の印象は、やはりその時と変わらないものでした。

トレース・エレメンツ”展の紹介映像が偶然YouTubeにあることを知りましたので、載せておきます。

http://www.youtube.com/watch?v=5FO2RuxXGtU







2009年8月28日金曜日

”LIFE 井上陽水”

今週の月曜から昨夜まで、NHK教育テレビで4夜連続で”LIFE 井上陽水”という特集番組を行っていました。以前、井上陽水さんがらみで傘がないに関する話を載せましたが、デビュー40周年を記念して、NHKが番組制作するとは考えてもいませんでした。

井上陽水さんは、昨年還暦を迎えました。まだ、60歳と言ったほうか良いのか、番組で受け答えする姿を見ても、なんとも得体の知れない物腰は相変わらずです。

毎夜登場する井上さんに関わってきたアーティストや文化人は、その時々の時代を感じさせる人たちばかりです。中でも、30代に麻雀を一緒にしていた阿佐田哲也さんは強烈な個性でした。井上さんですら、どこまでがホントでどこからが冗談なのかがよく分からなかったけど、憧れの存在だったと話しているほどです。また、純文学と娯楽小説両方で活躍される作家は今後現れないでしょうね。

http://www.youtube.com/watch?v=jxSDinhpcto

アーティストでは、やはり忌野清志郎さんかな。彼と2人で作った”帰れない二人”のような詞って、今の世の中なかなか出てこないだろうな。ロマンティックで儚くて、希望や絶望が同次元に存在しているようで、美しすぎます。

http://www.youtube.com/watch?v=0USYCP6VWv4

なんか、井上さんのことをほとんど書いていませんね。この番組を見て改めて判ったことは、井上さんは表現しなければ生きられない人なんだと言う事。それは、現在でもなお、強烈なオリジナリティーで言葉やメロディーを紡ぎあげ続けていることでも判ります。

そして、最も大事なことは、彼が作り出す楽曲そのものを時代や人々が、まさにその時点で求めていた(受け入れたがっていた)ことと何より彼自身が無意識であれ、敏感にそのことに気づいていたことだと思います。

2009年8月27日木曜日

僕がギャラリーを始めた訳 その1

ギャラリーを開設した理由の一つに、作品として成立しているアート写真をオリジナルで見て欲しいことがありました。そして、そこから湧き上がる感情や衝動を、実際に体感してほしいと思ったからです。

現在は情報が秒単位で更新され、ネット上ではほぼリアルタイムに文章や画像として手に入れることが可能になってきています。しかし、その感覚はあくまでも画面を通して得られたイメージの断片に過ぎず、直接心に響くものではないように感じます。

ネットは確かに情報を手に入れやすく、便利な道具(すでに生活の一部として欠かせないもの)として認知されています。しかも、それぞれの情報は常に新しい情報へと更新され、終いにはどこまでが正しく、どこまでが誤ったものであるかの判別をつけることすら困難になってきています。

不特定多数の人間がある一つの物事に対してさまざまな意見や考えを語るとき、それを取捨選択するのは受け手側に全て委ねられます。受け手側はその人自身の経験や知識を持って、出来うる限り客観的に内容を判断し、理解しようと努めます。そして、その行為はほとんどの場合、頭の中の作業の結果であり、自身の想像の域を外れないもののように思えます。

人には五感があります。しかも、それらの感覚を同時多発的に活用することを、自然の内に行動として起こしています。したがって、同じイメージを画面上で見た時と実際目の前で見たときの印象が違うということは、自然の流れなのです。

そして、その印象は時に自身の想像をはるかに超える場合があります。そんな時、人は理解出来ない、何を表現しているのか判らないと判断してしまいがちです。でも、その時の感情は紛れも無く自身から生まれたもので、ただ、言葉や行動として表現出来ないだけなのかもしれないのです。

アートは情報ではありません。生活としていく上で直接関わらないものかも知れません。
それでも、太古の頃からアートの存在が認められるには、必ずわけがあるのです。

先ずは観て、感じ、楽しんで下さい。

そこから、何かが始まります。

そのお手伝いを、僕はしていきたいと思っています。


現在、高橋和海ワークショップ&ビューイングイベントの申し込み募集中です。
ご自身の想像や創造の枠を広げてみませんか。
詳しくは下記のページからお入り下さい。

http://kalos-gallery.com/event/pg130.html

2009年8月26日水曜日

“法王庁の避妊法”

“法王庁の避妊法”、とても変わったタイトルですよね。

休廊日に、5度目となるDVD観劇をしてしまいました。2003年ホリプロが企画、制作し、世田谷パブリックシアターで上演されたものです。

この芝居は1994年、同名の小説を飯島早苗さんと鈴木裕美さんが戯曲化し、自転車キンクリートによって初演されました。その後、さまざまな劇団により公演されている現代演劇を代表する作品のひとつです。

内容は、オギノ式で有名な月経周期に関する「荻野学説」の発見までの過程を、荻野久作とその周囲の人々との関わりを通して、コミカルにそして非常に暖かい視線で描かれています。

全編に渡って女性に関わる事柄ですので、女性の劇作・演出家の2人で戯曲化したことが、非常に繊細で、優しさに溢れた作品になっている所以だと思います。

しかも演ずる役者は、まるで当て書きをしたかのように登場人物と一体化していて、飽きることがありません。特に、荻野久作演ずる勝村政信さんは医者として、研究者として、何より一人の人間としての強さや弱さを、存在感ある演技力で演じ切っていて見事の一言です。

妊娠、出産は人間の生命の価値についての大テーマだと思います。その価値観も置かれた立場や境遇によって人それぞれです。僕は舞台上でそれぞれの意見を対比、提示させられる度に、あたかもそのことが自分自身の命題でもあるかのように突きつけられている思いがしました。

現代の日本は閉塞感が被い、非常に生きにくい世の中になっていますが、この作品からはより根源的な人の尊厳や生きることの希望のようなものも考えさせられます。

しかし、芝居自体は難解なものでもただ高尚なだけのものではなく、どなたでも楽しめるものです。
つまり、それが脚本の良さなのです。

この芝居はDVDとして市販もされています。

機会があれば、是非ごらんになって下さい。

2009年8月25日火曜日

夏の終り

このまま、夏が終わってしまいそうなぐらい爽やかな朝です。

高校野球も終わり、小学校の夏休みも終わり、いろんな夏が終わっていきます。
今年は梅雨明け宣言も無く、いつの間にか天気図には秋雨前線が発生しているし、本当に夏らしい日が少なかったように感じます。

仙台での久しぶりの夏。

自宅にはエアコンも扇風機もなく、夜は寝苦しいのかなとか思っていたのですが、早朝polkaに一旦起こされるまでは目覚めないぐらい安息の毎日でした。東京での暑さに比べたら、避暑地にいるようなものですね。もっとも、300kmも北に位置しているのですから、当たり前と言えば当たり前です。

でも、僕が小学生の頃は、もっとじりじりとして暑かったように思います。きっと日本全国どこでもそうなのかもしれません。特に自分の小さい時の記憶って、強烈な印象が残っていないと思いだせないので、余計そう感じるのかもしれません。

家の中に当たり前にエアコンなどなかった時代、首降り扇風機で涼をとりながら、縁側に座り、冷えたスイカを食べた記憶。照りつける日差しが、目の前の地面をからからに乾かし、水をまいても一瞬にして蒸発してしまうような暑さ。近くの神社の鬱蒼と茂った森の中に響くセミの声、そしてその中に入り込んだ時のひんやりとした空気。

日本全国どこにでもある情景だったと思います。今だって、どこかには残っているのだとも思います。

とは言っても、なにも昔を懐かしがっているのではありません。


結局、人は今でしか生きられませんからね。

そして、変わっていくのは周りだけではなく、自分自身もですから。