現在ギャラリーは次回の会期準備中で、ホントにがらんとした状態です。空調も出来るだけ使用していないので、いつも冷え冷えとしています。そんな中、ぼちぼちと次回の準備をしているところです。
今日からは、掲示するキャプション類を作るつもりでいます。キャプションはそれほど目立つ存在になってはいけないのですが、あまり目に入らないのも困りますので、その辺りの匙加減でいつも頭を悩まします。作家や展示会の説明や背景に関わる部分を作品以外のところで見せるわけですから、その文章を読んで作品への印象が変わることは良くあることです。
作家を良く知っていても、作家自身の世界観や作品性を充分に理解しているかと言えばそうではないし、ましてや知らない人にとっては、この作品を発表する人物が何者で、どんなことをしているのかから触れたいとの気持ちはあります。
本来は、作品を感じるままに受け入れればそれで良いはずなのですが、作品に対しての興味がある無しに関わらず、取りあえずキャリアや制作の背景といった情報が欲しくなってしまうものです。これはどんな人でもありえることで、僕自身も興味を持った作品に出会った時には、作家自身を調べることは常としてしまっています。
その後、どんな印象に変わるかは人それぞれなのですが、出来るだけ最初に感じた印象を大事にして欲しいと思っています。つまりは、自分の感覚を信じて欲しいということです。たとえ、間違っていても良いとさえ言えます。表現の前では、それを表わす側も受け入れる側も自由であるからです。
それでも、表現する側は自分の作品について理解してほしいと願っています。それが、伝わるものだと勘違いしがちです。もちろん、充分にその意思や内容がストレートに伝わってくるものがありますから、そう思うのも当然かもしれません。
まぁ、そういう思いも感じながら、毎回どうしようかと考えているわけです。
個人的には何もなくても良いのかなと思ったりもしますが、それだといずれにも不親切でひとりよがりな展示会になってしまうような気もします。
これが、伝えることの面白さでもあり、難しさですね。
言い換えると、過多にも過少にもならない境界を探す作業なのかもしれません。
陽を待つふきのとう
6 日前
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